『離婚したい』という人は口癖のように「もう(配偶者への)愛がないのです。」と語ります。つまり「愛」は「結婚」の証明であり、「結婚」は「愛」のカタチであるという考えが前提になっているのです。
普段の生活ではあまり意識することはありませんが、現代日本人は当たり前のように「愛しているなら(から)、結婚してほしい」と要求するし、「結婚している以上、愛し合う必要がある」と考えています。
以上のように「愛」≒「結婚」という考え方を前提にすると、夫婦生活において「愛」が疑われるとその瞬間に「結婚」生活を続けることに違和感をもつようになり、「離婚したい」と考えるようになるのです。
しかし「愛がないから離婚したい」というような考え方の前提にある、「愛」≒「結婚」という図式自体、当たり前のようで当たり前ではないのです。本レポートではそのことを明らかにしたいと思います。
離婚で悩んでいる人のなかには「結婚って一体なんでしょうね?」と疑問をもつ人が少なくないので、ここでちょっと回り道をして「愛」の歴史について簡単に説明しておきたいと思います。実は「愛」≒「結婚」という図式は人類の歴史上、わずか100年の歴史もないのです。順を追って説明します。
あなたは結婚を選択(自由の行使)であると信じているかもしれませんが、それは最近の錯覚です。もともとの結婚は選択ではありませんでした。
1万年前から順次はじまった定住化にともなって、収穫物の保存・配分・継承のために『所有』という概念が生まれました。定住化の前までは、収穫物を保存することもなかったので、あえて収穫物を「誰々のもの」と確定する必要もなかったのです。
しかし定住化によって収穫物を「誰々のもの」と確定する必要性が生まれたことにより「法」が生まれ、そこではじめて『結婚』が誕生したのです。結婚のベースに所有という概念があることがポイントになります。
そもそも所有とは「使っていなくても自分のもの」という考え方です。この所有の考え方が、モノ(所有物)だけではなく、人間にまで適用されたものが『結婚』です。だから定住民の子孫たちであるわたしたちは、配偶者が浮気をすれば「勝手なことをするな」と怒るのです。
以上、「結婚」の歴史について説明してきたわけですが、ここで指摘しておきたいポイントは、「結婚」というものは「愛」とは一切関係のないものだった、ということです。では「愛」という概念は一体いつ生まれ、どのような経緯で本来愛とは関係がなかったはずの「結婚」と結びついたのでしょうか?
永遠の愛を誓うような愛は12世紀の南欧ではじまり、15世紀には既婚者同士のマジメな宮廷愛に発展しました。しかしそこでは愛は成就しないことが前提になっていました。なぜならば「あなたが世界のすべて」というような制御不能な情熱をいかにして証明するのか?ということが問題になったからです。
「あなたが世界のすべて」だなんていったところで、口ではなんとでもいえます。ただの人が世界のすべてだなんてありえるのでしょうか?だから恋ゆえの病と死こそが「真の心」の証だとされたわけです。
「あなたが世界のすべて」というような愛を証明するためには、病や死をもってしなければならない。しかし病や死に直面すれば、愛を成就させることはできない。だからあくまでも恋愛は、暇な貴族の「戯れ」(遊び)だったのです。
つまり本来の「愛」は、法外(既婚者もの)のものであり、貴族のものであり、成就しないものであり、戯れ(遊び)だったわけですが、あることをきっかけに一挙に庶民化します。
19世紀になり印刷技術が普及すると恋愛小説が流行します。恋愛小説を読んだ庶民は「一生に一度でいいから恋愛してみたい」と願います。
しかし恋愛をしてみたいと願ったところで、「真の心」を証明するためには病や死が必要です。病や死なんてものは庶民にとってはハードルが高すぎます。「あなたのことを考えるだけで熱病にうなされて・・・」なんてやっている暇は庶民にはないのです。
そこで「真の心」を証明するものとして、病や死の代替物として『結婚』が持ち出されたわけです。「真の心」の証明としての結婚という新解釈の誕生です。
そして20世紀になると「愛の証明」として「結婚する」のが逆転し、「結婚の手段」として「愛を探す」ようになりました。ようするに「恋愛結婚」です。しかし誰もが恋愛できるとは限りません。愛を探しているうちに婚期を逃す人が少なからずいます。
そこで21世紀になると「出会い」や「結婚」がビジネスになりました。『街コン』、『相席居酒屋』、『婚活マッチングアプリ』などのサービスが当たり前になり、離婚・再婚も珍しいことではなった昨今では「再婚者限定のマッチングサービス」も登場しています。わたしたちはどこにいくのでしょうか?
実は恋愛結婚は構造的な困難さを抱えています。脳生理学によれば恋愛(非日常愛)は2年しかもちません。そう。恋愛には賞味期限があるのです。
しかし結婚生活は自然消滅しません。離婚するまで続きます。恋愛は終わるのに結婚生活は続く。このギャップがわたしたちを苦しめるのです。
ギャップを埋めることができなければ関係は終わり、ギャップを埋めることができれば関係は続きます。ギャップを埋めるにはどうすればいいのでしょうか?
「恋愛という非日常愛をなんとかして日常愛に変換する」という方法があります。しかし男女問わず、非日常愛を完全に断念できるわけではありません。
少なくない男女が「別口で」非日常愛を確保しようとします。とはいえ結婚生活を壊したいわけではありません。むしろ結婚生活を続けるためにこそ非日常愛を求めるのです。
とはいえ結婚生活を続けるために非日常愛を確保するという態度が周囲に理解されるとは限りません。みんなそのことを知っているので「別口で」確保した非日常愛は秘密の関係になるのがもっぱらです。
とはいえ誰もが非日常愛を別口で確保できるとは限りません。秘密の関係を続けるにはコストがかかります。また秘密の関係が配偶者にバレてしまうというリスクもあります。
仮に秘密の関係がバレた時は、「結婚生活を続けるためにこそ非日常愛を求めた」という態度に、配偶者がどれだけ納得してくれるかどうかが、家庭が崩壊するか温存されるかの分岐点になるでしょう。
「恋愛と結婚は違う」とはよくいわれる格言ですが、本当にそうなのです。本来であれば「恋愛」と「結婚」はお互いに関係ないものなのです。
それにもかかわらず「恋愛+結婚」というものが成り立つと信じてしまったからこそ、多くの夫婦が「こんなはずじゃなかった」と苦しんでいるのです。マジメに恋愛結婚した人ほど「こんなはずじゃなかった」という期待はずれを体験することになるでしょう。
ここで伝えたいことは「あなただけが夫婦関係で悩むわけではない」ということです。「恋愛結婚」という作法を信じた多くの人が「必然的に」恋愛の終わりと結婚生活の継続というギャップに苦しむことになるのです。
夫婦ともにそのギャップの存在を認識していれば、「夫婦で一緒に乗り越えよう」と気持ちを新たにいろいろな工夫をすることもできるでしょう。しかしどちらかが恋愛の終わりと結婚生活の継続というギャップに気づいていない場合には、厄介なことになります。
ドラマ「昼顔」を見たことのある人ならよくわかるでしょう。恋愛結婚の『根源的な困難さ』(恋愛に賞味期限があるのに、結婚は続く・・・)に妻たちは薄々気づいているのに、夫たちは「結婚生活の何が不満なんだ!!!」と主張するばかり。
「結婚生活の何が不満なんだ!!!」と主張する夫をみて、妻は「この人にわたしの気持ちは理解できそうもない」と絶望を深め、妻の気持ちはますます旦那から離れていってしまうのです。旦那は昼顔妻にどのような言葉をかけるべきだったのでしょうか?
ここで「願望水準」と「期待水準」という概念について説明しておきたいと思います。願望水準とは「心の奥底で望んでいること」、期待水準とは「現実に期待すること」という意味です。
恋愛結婚をした当初は、願望水準も期待水準も高い状態です。むしろそうでなければそもそも恋愛結婚はしないでしょう。「いずれ離婚するかもしれない」という不安を抱えながら恋愛結婚するカップルはいないはずです。
しかし結婚生活を続けるうちに「恋愛結婚の抱える根源的な困難さ」にぶち当たります。恋愛は終わるのに結婚生活は継続するわけです。恋愛の熱が冷めれば冷めるほど、期待水準(現実に期待すること)が下がっていきます。
ここにギャップが生まれます。期待水準は下がっても、願望水準は高いままだからです。「熱々の夫婦生活」という願望水準と、「冷めた夫婦生活」という期待水準のギャップに苦しむことになります。ギャップを解消しないかぎり苦しみは続きます。どうすればいいでしょうか?
高いままの願望水準(心の奥底で望んでいること)と低くなった期待水準(現実に期待すること)のギャップがあなたを苦しめる元凶になっているという話をしました。ギャップを埋めるには2つの方法があります。
1つ目の方法は、低くなった期待水準に合わせて願望水準が低くなるのをひたすら待つという方法です。現実を変えるためのコスト(努力や工夫)を支払わなくていい分、「しょぼい現実」を受け入れなければいけません。
2つ目の方法は、高い願望水準に合わせて低くなっている期待水準を高めていくという方法です。心の底で望んでいることを諦めなくていいかわりに、現実を変えるコストを支払わなくてはいけません。
あなたは2つある選択肢のうちのどちらを選択するでしょうか?