ケーキの切れない非行少年

ケーキ 包丁

常磐自動車道であおり運転した挙句に男性に暴力をふるった男性が逮捕されました。一連のニュースを見た人のほとんどが「なぜ?あんなアホなことをしたのだろう?」と思うはずです。

しかし本人は「アホなことだと思っていない」からこそ、わたしたちにとっては「アホなこと」をしていることは見過ごせません。

すべてがゆがんで見えている

「ケーキの切れない非行少年たち」という本があるのですが、帯で紹介されている「非行少年が”三等分”したケーキの図」をみてください。そう。非行少年にとっては「すべてがゆがんで見えている」のです。

三等分したケーキの図

もちろん何が真っ当で、何が真っ当でないか?という常識は、その時の社会によって変わります。例えば昔の日本映画をみると、普通の男性が、普通に同僚女性のお尻を触ってヘラヘラしている様子が描写されています。今なら一発アウトでしょう。

また漫画の神様、手塚治虫先生のマンガをみれば「差別的な表現があると指摘を受けますが、当時の社会情勢を反映した描写であり、差別を助長させるものではありません。」という風な注意書きを目にするはずです。もしかしたら現代人が何気なくやっている行動も数十年後には非難されるようになっているかもしれません。

みんなの常識?

そして現代では「みんなの常識」というものが通用しにくくなっています。ツイッターにはツイッターの、メルカリにはメルカリの、都市部には都市部の、地方には地方の、高齢者には高齢者の、若年層には若年層の、オタクにはオタクの、『常識』があるのです。

それらの常識はその他の人にはどうでもいいことです。ですからある人達にとっては「当たり前」のことであっても他人から『性格がオカシイ人』というレッテルを貼られる可能性だってあるわけです。

しかし性格がオカシイ結果、法律を犯すなどすればそれは「その人の責任」です。「俺はおかしくない。おかしいのは社会の方だ」という主張がまかりとおるなら、近代社会は成立しないからです。

学問についても同様です。もしかしたらあなたはケーキを三等分できない非行少年を馬鹿にするかもしれませんが、わたしたちも頭のいい人から「なんて頭の悪い行動をしているのだ?」と思われているかもしれないのです。

とはいえわたしたちが「頭の悪い行動」をしたところで誰も責任をとってくれません。知識不足の責任は「その人の責任」なのです。だからわたしたちは社会人になってからも勉強を続けるべきなのです。