2ちゃんねる元管理人の『ひろゆき』こと西村博之氏のYouTube切り抜き動画が驚異的な再生数を叩き出しています。
切り抜き動画の話題はさまざまです。お金・政治・恋愛・社会・健康のことなど、いろいろ人が抱えるさまざな問題について、ひろゆき氏が軽妙かつ独特の語り口で語っているのですが、なんと・・・
2021年5月中に1回でも切り抜き動画を視聴した人数が1,583万人もいるのだそうです。もしかしたらあなたも「どうすればいいのか?」と、西村博之氏に質問したくなるような悩みを抱えているかもしれません。
ではなぜ?「どうしたらいいのか?」という悩みを抱えている人がたくさんいるのでしょうか?それは日本が「立場主義」の国だからです。
コロナ禍で売り上げが激減した中小企業を救うために、国が最大200万円(法人200万円、個人事業主100万円)を給付する「持続化給付金」という制度がありましたが、すぐに大きな騒動に発展しました。
持続化給付金の事務手続きを委託された『サービスデザイン推進協議会』は幽霊法人であり、事務手続きを769億円で委託されていたものの、749憶円で『電通』に丸ごと再委託していたのです。
その問題についてインタビューを受けた『サービスデザイン推進協議会』の代表理事は『私は飾りです』と断言しました。
サービスデザイン推進協議会の代表理事が「私は飾りです」と言い切っっちゃたのすごい。 pic.twitter.com/AkzkpxNA2d
— れもんた (@montagekijyo) June 3, 2020
そう。代表理事は「飾り」の役割を果たしているだけなのです。だから「しょうがないだろ」、「俺の立場も考えてくれよ」というのが代表理事の言い分なのです。
日本では「やってはいけないこと」を他人から強制されたり、ある人にとっては「やってはいけないこと」なのに、別の人にとっては「許されること」になるということが当たり前になっています。そういう例が山ほどあります。例えば・・・
森友学園への国有地売却をめぐる財務省の公文書改ざん問題。うつ病を発症した末に自殺した赤木俊夫さんは、「国家公務員の倫理」をやぶり「財務省の論理」を優先することを強要されたのでした。
ほかにも郵便局の内部通報制度。有力な郵便局長が「仲間を売るのは許せん」と吠えて、内部通報制度を真っ向から否定しても、経営陣は曖昧な態度しかとってくれないのです。まだまだありますよ。
「へずまりゅう」を名乗りユーチューバーとして活動していた原田将大さんは、スーパーで会計前の魚の切り身を食べたなどとして窃盗罪などに問われました。その一方で、NTTから高額接待を受けた平井卓也デジタル相は、「事後的に割り勘したので問題ない」と弁明(?)しました。
コロナ禍における緊急事態宣言中に、産経新聞の記者2人と朝日新聞の記者だった社員1人とともに賭けマージャンをして刑事告訴された東京高等検察庁の黒川元検事長に対し、東京地方検察庁は「1日に動いた金額が多いとは言えない」として起訴猶予の判断を下しました。
国会議員や高級官僚は国民に対して自粛要請をしておきながら、自分たちは夜のクラブで酒を飲んだり、深夜まで居酒屋で送別会をやっていました。そもそも飲食店でのソーシャルディスタンスには厳しいのに、満員電車での通勤は「なんとなく」放置され続けました。
子どもには「みんな仲良くしましょう。いじめはダメ、絶対に。」などと教えているのに、神戸の小学校では教師が同僚の教師から激辛カレーを無理やり食べさせられ、羽交い絞めにされ、目にこすりつけられる・・・なんてこともありました。
そう。日本は「ルール(規範)があるようでなく、ないようである」という摩訶不思議な国なのです。このような摩訶不思議な状況はいつから生まれたのでしょうか?
作家の三島由紀夫は、こんな言葉を残しました。
【このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或(あ)る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。】(出典:果たし得ていない約束)
残念ながら三島由紀夫の予言は的中しました。江戸時代には「儒教」がありました。明治時代には「天皇」がありました。大正時代には「武士道の精神」が残っていました。
武士道とは???人気漫画「鬼滅の刃」を観たことのある人ならわかるでしょう。そう。煉獄杏寿郎のような生き方のことです。口だけではなく、文字通り「命を賭して守るべきものを守る」生き方のことを武士道といいます。
武士道の精神を貫徹した人間たちが生きていた記憶のある世代までは、政治家や官僚は文字通り「君国のために死ぬ覚悟」で政治をやっていたし、それが疑わしい場合には、死刑になる覚悟で暗殺を企てる国民もいました。
しかし戦後の日本は「空っぽ」になってしまったのです。事実、鬼畜米兵を唱えていた人たちがある日を境に「アメリカ万歳!!!」と叫び、自分たちが民主主義者だと信じるようになりました。
これは不思議なことです。民主義者だと信じている人たちは実のところ本当は・・・・立場によって主義を変えているだけの「立場主義者」なのではないだろうか???という疑問が、三島由紀夫にはあったのでしょう。こんな話もあります。
ノーベル物理学賞の湯川秀樹博士が、政治思想学者の福田歓一(ふくだかんいち、東京大学名誉教授)と一緒に食事をしたときのことです。
福田歓一教授がふとこんなことをいいました。「憲法や議会は民主主義と何の関係もないのです。」と。この言葉には湯川秀樹博士ほどの学者もビックリ仰天。湯川秀樹博士は食事の最後に、こういったそうです。
「僕がこんなことも知らんのは、福田さんが教科書を書かんのが悪いんや」と。なぜ日本の学校では、民主主義を教えないのでしょうか?福田教授は自分のエッセイでこういっています。
(このような事実を)「はっきりさせたのでは、(教科書)検定を通る気づかいはない」と。なぜ検定に通らないのか?福田教授自身はそのことについて沈黙を守りましたが、その理由について推測すればこうなるでしょう。
「文部省の役人たちは、議会があって憲法があれば日本の民主主義は安心だと国民に思わせておきたいから。」
もちろん日本の一般的な学校で教えてくれないのは「民主主義」だけではありません。お金・愛・宗教・歴史についても教えてくれるのは『建前』だけなのです。
「建前」だけ学んでもいざというときの役には立ちません。もう全然役に立ちません。その証拠に、「借金苦で自殺する」とか、「結婚生活に愛を求めてストレスで寝れない」とか、「カルト教団のウソに気づけない」とか、超・基本的なことを知らないがゆえの悲劇がたくさん転がっているではないですか。
戦後の日本教育は、いつから大切なことを教えてくれなくなったのでしょうか??
徹子の部屋でもお馴染みの黒柳徹子さんは、小学生の時はいわゆる「落ちこぼれ」でした。しかし「トモエ学園」というミニスクールのおかげで、楽しい日々を送りながら成長することができました。(参考:黒柳徹子著『窓際のトットちゃん』)
もし「トモエ学園」がなかったら???黒柳徹子さんがタレントとして成功したり、ベストセラーを書いたりすることもなかったでしょうし、徹子の部屋という長寿番組が誕生することがなかったでしょう。
ここで重要なポイントは「トモエ学園」は戦後に再建されなかったということです。なぜか?答えは単純です。つくれなくなったのです。
日本の小学校は、1941年にヒトラー全盛にあったドイツの国民学校を手本にして「国民学校」に一本化されました。それにともない個人が勝手に小学校を設立する自由もなくなり、親が自宅で子どもを教えて学校にやらない自由もなくなりました。
そして1945年にはマッカーサーが乗りこんできて1947年には教育大改革がおこなわれたものの、文部省と日教組がガッチリとスクラムを組み、ヒトラー主義は戦後70年以上も経過した現代でも生き続けているのですが、その結果といえば・・・悲惨というしかありません。
受験戦争、偏差値教育の成れの果てに生まれたのが現在の政治家や官僚たちです。「ああなりたい」という子どもはほとんどいません。だからかつて東京大学の成績優秀者は官僚になるのがお決まりのパターンだったのに、今では見向きもされません。
子どもは「何のために勉強するのか?」がよくわからないし、教師のほうもよくわからなくなっています。子どもの不登校だけでなく、教師の不登校も珍しくなくなりました。
そして実は親だって「何のために勉強するか?」がわからないし自信を失っているのです。そうなるのも当然です。親も戦後教育にどっぷりつかった世代であり、本当に大事なことを『国民学校』で教えられてこなかったのです。だから親だってどうしたらいいのかわからないのです。
不安になればなるほど親は子どもに「勉強しろ!!!」とはいうものの、親だって本当は勉強すれば幸せになれると心の底から信じているわけではないのです。
だから親世代も誰かに「どうしたらいいでしょうか?」と質問するのですが、その質問を繰り返せば繰り返すほど、第三者に搾取されて幸福からどんどん遠ざかっていく可能性が高まるのです。
そんなことは「どうしたらいいでしょうか?」と質問する人も薄々は気づいています。しかし残念ながら「どうしたらいいでしょうか?」ということを他人に聞きたくなる心の習慣を捨て去ることができないのです。なぜでしょうか?
それが存在するときには、ありがたみがわからないものというのはたくさんあります。日本人は水と空気はほとんどタダだと信じていますが、そうではありません。
とはいえ日常生活で水なんかいくらでもあるときには、枯渇(水がないこと)の恐ろしさなんか想像もできないですし、食べるものが有り余っているときには飢餓は考えられません。だから拒食症なんて病気がでてくるのですし、東京オリンピックでは大量の弁当が廃棄されてしまうのです。
そして実は「規範(何をすべきで何をすべきか?)」ということにもそれは当てはまるのです。規範が存在するときにはありがたみがわからない。一人の人間にとって必要不可欠であることに気づかない。しかし、失ってみて、そのありがたみが本当にわかるのです。
規範がない状態、つまり「何をしてよいのか、何をしてわるいのか」がわからなくなる状態、実は人間にとってこれほど苦しいものはないのです。まるで溺れているように苦しいのです。
規範に飢えているときに、カルト教団の教祖があらわれるとどうなるでしょうか?
カルト教団の教祖は、「あれをしろ、これはするな」とハッキリ命令します。曖昧さはゼロです。「どうしたらいいかわからない状態」の人が今まで求めてもなかったものがそこにあるのです。
カルト教団に入信する人のことを「あんな教養もあり地位もある人が、なんであんな幼稚なカルト教団に入信するのか?」とたいがいの人は呆れるでしょう。しかしカルト教団の信者は、死に物狂いなのです。
「どうしたらいいかわからない状態」の人が教祖に命令されれば、もうあっという間にイチコロなのです。教養があろうが、学問があろうが、地位が高かろうが、家族がいようが、狂信的な信者に生まれ変わってしまうのです。
もちろんあなた自身が、気づいたら地下鉄にサリンを撒く宗教団体の仲間になっていた・・・ということはないかもしれません。しかし似たような状態に陥ることはあり得るのです。
日本には「どうしたら幸せになれるのだろうか?」と悩んでいる人がたくさんいます。そして「何か」を求めている人の耳には、たくさんの甘い囁きが聞こえてきます。例えば・・・
お金を稼げば・・・マイホームを購入すれば・・・黙って働けば・・・熱心にボランティアをすれば・・・素敵なパートナーを見つければ・・・資格を取得すれば・・・語学堪能になれば・・・プログラミングスキルを習得したら・・・痩せれば・・・モテれば・・・コミュ力を鍛えれば・・・サプリを飲めば・・・etc
「どうしたら幸せになれるのか?」と悩んでいる人ほど不安になっているので、「●●すればいい」とハッキリ断言してくれる人に魅力を感じます。そしてお金を払ったら「もうお金も払ったしな」というような理由で自分を奮い立たせ、いつかやってくるかもしれない幸せに向けて頑張るのです。
しかし残念ながら・・・努力や忍耐はあまり長続きしません。なぜでしょうか?答えは簡単です。今その人が打ち込んでいる「●●」は、その人が心の底から本当にやりたいことや求めているものではないからです。
結局のところ他人から魅力的な提案を受けたから試してみただけ。。。なのです。。。だから少し時間が経過すれば目が覚めます。そしてまた「どうしたら幸せになれるのか?」ということが気になり、また別の何かにハマるのです。
ハマるものがカルト宗教であるかもしれないし、別の何かかもしれませんが、それを繰り返すのです。そしてそのようなことを何度か繰り返しているうちに、「何かがオカシイ」ことに気づくのですが、何がオカシイのかがわからないので年を重ねるほど混乱や焦りは深まるのです。
なぜならば・・・・人生の貴重な時間や、汗水たらして稼いだお金は『投資済み』だからです。とはいえ自分の過去を否定できる勇気がある人はほとんどいないため、「なかったこと」にしたり、「考えることを放棄する」なんて人もいます。
一体全体どうすれば、、、、立場主義が蔓延し、、、、社会で生きる上で当たり前の基本的なことすら教えてくれない日本という国で、、、、、「どうしたらいいかわからない」という状況を打開できるのでしょうか??(次回に続く)