セロ弾きのゴーシュ ~ 計算と努力

セロ弾きのゴーシュ

いわゆる「小室圭さんの金銭問題」について。小室圭さん側が発表した説明文書が28ページあることについてテレビのコメンテーターが「わたしには関係のない文章なのでとてもじゃないけど全文読む時間はありません」などと発言していました。

説明文章の文字数をカウントしてみたら34,359文字しかなかったので、「テレビで発言するのが仕事なら、それくらい読んであげようよ」と小室圭さんに同情してしまいましたが、活字に慣れていない人からするとたかだか28ページの文章ですら読むのが難しいのかもしれません。

でも安心してください。今回紹介する小説は、短いのにとてもよく示唆に富んでいますから。

努力とは計算?

文芸評論家の小林秀雄(こばやしひでお)は『通常言われる努力は本当の努力ではなく計算』ということを主張していました。そのことはコロナ禍を経験した方ならわかるはずです。

緊急事態宣言の次はまん防(まん延防止等重点措置)により営業時間短縮を「要請」された飲食店の経営者がテレビのインタビューで「お客さんがくるかどうかわからず計算が成り立たない」と発言していましたが、まさにそういうことです。

計算が成り立つと思うから努力するのが近代社会では当たり前になっています。経営者が金融機関や投資家からお金を借りて事業をはじめるのは「計算が成り立つ」という算段があるからです。

同様に、受験生が安心して勉強に取り組めるのも「どのような勉強を、どれくらいやったら、どれくらいの結果がでる」ということがわかっているからです。センター試験や志望校の「過去問」から出題の傾向がわからなかったら計算が成り立たないので、夜も不安で眠れなくなるかもしれません。

以上、「計算が成り立つ」という状況であれば人は安心して頑張れる(努力できる)ということを説明してきましたが、あなたは「計算が成り立たない」という状況で頑張ることができるでしょうか?

勉強する意味ありますか?

残念ながら「計算が成り立たない」という前提で何かに取り組むことは現代人には難しいかもしれません。なぜならば「計算が成り立つ」というのはそれ自体が奇跡的なことのはずなのに、近代社会に染まったわたしたちは「それが当たり前」だと信じて疑いもしないからです。

ですから子どもから大人まで勉強する『前』から「それって勉強する意味あるのですか?」という疑問をもつことが、さも当然の権利であるかのように錯覚してしまうのです。勉強する意味がわからないから勉強するのが本来の教育であるはずなのに、教育が商品になったことで大きな矛盾が隠蔽されるようになりました。

商品である以上は、「買う前にその価値がわかっている」ことが必要です。しかも商品を購入したら「できるだけ早くその価値を感じたい」と思うのが人情です。しかし本来の教育は商品であるはずなのに、「買う前からその価値がわからない」し、「その価値をすぐには感じられない」という性質をもっているのです。

その結果、合理的であろうとすればするほど「勉強しない」ということが肯定されるようになってしまうのです。合理的に考えれば「知らないことを知ろうと努力する」とか「挑戦したことがないことに挑戦する」したほうが成長できるはずなのに、計算が成り立つという前提がないと行動できない状況に慣れすぎるとそれができなくなってしまうのです。

では本当の努力とはどういうことなのでしょうか?

その疑問に短い物語で答えてくれるのが宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」という作品です。

ずっと満足できない

セロとは「チェロ」のことです。ゴーシュとは作品の主人公の名前です。そして「セロ弾きのゴーシュ」は、チェロを弾くのが下手なゴーシュが必死に練習して上達するという単純な作品なのですが、本記事を読んでから作品を読めば、宮沢賢治のメッセージがずっと奥深いことに気づくはずです。

ゴーシュの努力は「計算可能性にもとづいた努力」ではないのです。だからチェロが上達して周囲から評価されるようになっても満足できずにチェロを弾き続けたいと願うのです。あなたが計算可能性が保証されなくてもやりたいことはどのようなことでしょうか?

「セロ弾きのゴーシュ」はKindle版であればAmazonで無料で購入できます。是非読んでみてください。