信頼社会の サバイバル戦略

これまでの常識が通用しない時代に突入している」ことに薄々気づいているけれど、具体的な対策をしないまま日々を過ごしているのではないでしょうか?

そこで本レポート「信頼社会のサバイバル戦略」を執筆することにしました。これ「まで」の常識とはなにか?、これ「から」の常識とはなにか?、具体的にどのような能力やスキルを鍛えればいいのか?、どんなことを意識して日々の生活を送ればいいのか?という疑問に答える内容になっていますので、是非、参考にしてください。

まずは「信頼社会のサバイバル戦略」について考える手がかりとして、他人に対する信頼感が極端に低い『大富豪さん』に登場を願うことにしましょう。

大富豪さんの物語

『大富豪さん』は、親から譲り受けた莫大な財産をもっているのですが、そのせいもあって、極度に他人を信じない傾向があります。

『大富豪さん』にとっては、他人とはすべて他人の財産を狙って近づいてくる下心をもった人たちであり、少しも油断できない存在です。ですから『大富豪さん』は、どんな人に対しても心を開こうとしません。

このような生き方をする『大富豪さん』について間違いなく予想できることが一つだけあるとすれば、『大富豪さん』にたくさんの友達はいないだろうな・・・ということです。

もちろん若いうちは『大富豪さん』と友達になりたいと考えた人もいたでしょうし、他人を誰も信じない『大富豪さん』を気の毒に思って、手を貸してあげようとする親切な人もいたかもしれません。

しかしそうやって仲良くなって親切にしたところで、『大富豪さん』が心の中で「何か下心があるのではないか」と疑っていることに気づけば、普通の人ならば『大富豪さん』と付き合うのがだんだんイヤになるでしょう。

かくして『大富豪さん』の周りには、親身になって付き合ってくれる人がどんどんいなくなっていったのですが、それでも『大富豪さん』との付き合いを止めない人たちもいることはいるでしょう。

しかしそうした人たちの多くは、多少不愉快な思いをさせられても『大富豪さん』と付き合うことで、何らかの得があるのではないかと考える打算的・利己的な人たちです。本心から『大富豪さん』に親身になって付き合っている人はごくごく少数しかいません。

さて、こうして周囲からどんどん人がいなくなったのを見て、『大富豪さん』はどう考えるでしょうか?自分の身の回りに友人と呼べるような人がいなくなったのは、自分が疑り深くて、相手に心を許さないせいだと反省するでしょうか?

不信の連鎖

意地悪な言い方に聞こえるかもしれませんが、『大富豪さん』は、そのような反省をしないだろうと思います。

なぜならば自分の周囲に残っているのが、『大富豪さん』を騙したり、利用しようという下心をもった人間ばかりになればなるほど、『大富豪さん』は「自分の見方は間違っていなかった」とますます確信を深めるはずだからです。

きっと『大富豪さん』さんはこう思うでしょう。「長く生きてきたが、わたしは一人として信頼できる人間と出会うことがなかった。わたしの周りにいるのは利己的な人間ばかりだ。やはり他人を容易に信用してはいけないのだ。」と。

さらに『大富豪さん』は次のように考えることでしょう。

「そういえば、たしかに最初の頃は、親切に近づいてくる人たちもたくさんいた。しかしそういう連中もわたしが警戒をゆるめないことを知ったとたん、どこかに行ってしまったところをみると、やはり、打算で近づいてきたのだ。」と。

このように友達が減ることによって、『大富豪さん』さんの心にある他人への警戒心はさらに強化され、ますます他人を信用しなくなるわけですが、話はそれで終わりません。

さらに他人を信じなくなった『大富豪さん』さんの様子をみて、わずかに残っていた友人たちも愛想をつかして離れていってしまうのでした。。。。

すべて対人関係の悩み

もちろん『大富豪さん』の物語は極端な例であり、実際にはここまで孤立する人はほとんどいない・・・・・と言いたいところですが、日本はタワマンに住むことができるほど豊かでも孤独死する人が珍しくありません。(特に男性)

人間関係から見放されれば、お金があっても孤独死するのが日本の現実ですが、孤独は寿命を縮める原因の一つにになっているのでは?とも囁かれています。事実として、日本人の独身男性の2人に1人は、67歳までに亡くなるという衝撃的なデータもあります。

アルフレッド・アドラーは、「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」といいましたが、裏を返せば、「人間の幸福もまた、すべて対人関係の幸福である」という意味でもあるのです。

対人関係から悩みではなく、幸福を引き出すために重要なことはなんでしょうか?

『大富豪さん』の話からわかることは、「不信」を出発点にしてはいけないということです。

まずは他人を信頼する気持ちを持たないと、他人も自分を信用してくれません。他人との信頼関係を築けないと、ますます他人を信頼できなくなる気持ちが増幅してしまい、それがさらなる他人の不信を招く・・・・・つまり「不信の連鎖」がそこに発生してしまうのです。

アルフレッド・アドラーも「他者信頼」の重要性を説いています。しかし「他人への不信を出発点にするのではなく、他人への信頼を出発点にせよ!」というアドバイスは、実は・・・・・・日本人にとっては受け入れがたいアドバイスなのです。なぜならば・・・・・

人を見たら泥棒と思え

社会心理学者の山岸俊男さん(やまぎしとしお、北海道大学名誉教授)は、日本人は「人を見たら泥棒と思え」と考える傾向が強い人たちの集まりである・・・・・という衝撃の事実を研究で明らかにしました。

「人を見たら泥棒と思う」のをやめなさい!!!とアドバイスすることは簡単です。しかしそのようにアドバイスしても「人をみたら泥棒と思う」ことをやめることは、そう簡単ではないのです。

というのも「人を見たら泥棒と思う」という日本人の「他者への不信」がまったく根拠のないものではないからです。だからこそ「他人をうかつに信じないほうがいい」という日本人の信念体系は、そう簡単には揺るがないのです。

日本人が「他人を信じない方がいい」と考えるそれなりの根拠とは、いったいどこにあるのでしょうか?

ズバリ答えは、日本人が暮らしてきたのは『安心社会』だからです。なにかあるたびに、日本人が『安心・安全』を要求するのは、偶然ではないのです。では『安心社会』とはどんな社会でしょうか?

『安心社会』とは、「正直者である」や「約束を守る」といった美徳を必要としない社会です。裏を返せば、『安心社会』とは正直者を必要としない、正直者を育てない社会であるということです。

普段の生活では意識せずとも、日本人はそのことを知っているからこそ、他者をそう簡単に信じようとしないのです。

正直が美徳でない?

『安心社会』とは、「正直者である」や「約束を守る」といった美徳を必要としない社会である・・・・・といわれてもピンとこない人が多いと思うので、友人から聞いたエピソードを一つ紹介します。

とある日本の某有名企業に勤める新人社員が、勤務先のフロア内にあるトイレで財布を落としました。新人社員は落ち込みましたが、それほど心配していませんでした。なぜならば「会社は家族である」と信じていたからです。

家族は信頼し合える存在です。「この人は信頼できるだろうか?」と疑う必要すらありません。その企業の社員である限りは、職場の人間が信頼できる相手かどうかを考える必要もないことが、『安心社会で暮らしている』ということの意味なのです。

財布をトイレに落とした新入社員は、「財布を拾った方はご連絡ください。」と社内メールで訴えたそうです。しかし残念ながら・・・・・財布が返却されることはなかったそうです。

「社内に財布を盗んだ輩がいる」ことに失望した新入社員は、驚きの行動に出ます。なんと・・・・・某「週●文●」にリークしたのでした。(最終的には会社と示談が成立したらしい。)

日本社会には、「クラスメイトは全員友達」とか、「会社は家族」であるという価値観がいまだに生きています。「安心社会」のなかで暮らしている以上は、相手が信頼できるかどうかを考える必要もないのです。

そもそも・・・・・・一体、なぜ『安心社会』では、相手が信頼できるどうかを考える必要もないのでしょうか?

美徳を強制する仕組み

「安心社会」のなかで暮らしている以上は、相手が信頼できるかどうかを考える必要もない理由は、もちろん「安心社会」のなかで暮らす人たち全員が、正直者で、約束を守る人たちだから・・・・・では「ありません」。

「安心社会」では、その人が正直者であるか、嘘つきであるかは本質的には関係がないのです。なぜならば安心社会では、社会そのものがそこに暮らすメンバーたちに正直さや、律義さを強制するような仕組みになっているからです。

つまり彼らが正直で約束を守るのは、もしそうしなかったら社会からペナルティ(例:村八分)を受けることがわかっているからに他ならないからで、正直者でありたいと考えて、そう振舞っているとは限らないのです。

そしてここで重要なのは「安心社会」の単位です。

安心社会の単位は、家族だったり、村だったり、学校だったり、会社だったり、組織だったりします。裏を返せば、家族・村・学校・会社・組織の一歩外にでれば、そこにいるのは「よそ者」であり、「よそ者」である以上は、「人をみたら泥棒と思う」ことが自然になるわけです。

関係性検知能力

「安心社会」について理解すれば、「旅の恥は搔き捨て」ということわざへの理解も深まるはずです。

日本人は、自分が所属している「安心社会」の一歩でも外にでれば、別人のようにふるまうことができます。なぜならば「安心社会」の一歩でも外にでれば、そこにいるのは「よそ者」であり、「よそ者」の意見は自分が所属している「安心社会」における立場には関係がないからです。

その一方で安心社会で生きる人々は、「安心社会」の内部における人間関係については敏感で、常に細心の注意を払うのが当たり前の習性になっています。

たとえばわたしが脱サラしたあとに驚いたことなのですが、元同僚たちとの飲み会で中心的な話題になることは、いつも必ず「人事の話」なのです。なぜ「人事の話」が中心的なテーマになるのでしょうか?

その答えはズバリ、安心社会のなかで生きる上でもっとも重要なことは「誰と付き合うことが、もっとも安心をもたらしてくれるか」ということを見極めるこだからです。

つまり自分の所属している集団の内部で、もっとも力をもっているボスが誰であるか、またそのボスと仲良くなるにはどの人を味方につけておくべきか、あるいは誰と必要以上に仲良くするのはよくないか・・・・・

こうした人間関係を読み間違えて行動してしまうと気まずくなったり、不利益をこうむる可能性だって高くなります。しかも所属集団からそう簡単に離脱できるわけでもありません。

だからこそ、こういった内部の力関係や人間関係を正確に読み取る能力、【関係性検知能力】こそが、その人が所属集団のなかでサバイバルする上で重要な能力になっているわけです。

安心社会の終わり

安心社会においては、空気を読む能力つまり【関係性検知能力】がサバイバルする上で重要な能力になります。

たとえば以下のような場面に遭遇した時、周囲を観察して空気を読んで、「集まる必要ある?」という疑問に蓋をする能力こそが【関係性検知能力】なのです。

しかし【関係性検知能力】が通用しない場面が多くなっています。なぜならば安心社会そのものの崩壊が、はじまっているからです。

時代は変わり世の中は自由競争の時代になりました。かつてのような横並び主義は姿を消しました。これまではみんなと調和して生きていくのが正しい時代だったけれど、個性を発揮して、自分の欲望を追求していくことが正しい時代になってしまったのです。

こうした「時代の変化」は、私がわざわざ言わなくても、今の日本人なら誰でも感じていることだと思います。YouTubeを視聴すれば、他人に隠すようなことを暴露したり、目立った行動をしたり、挫折しても挑戦し続ける人たちが礼賛(らいさん)される世界が広がっています。

もちろんインターネットを遮断し、YouTube・Google・Facebook・InstagramなどのSNSも廃止し、他国との貿易を一切停止するなどして『鎖国』を実現できれば、安心社会は守られるかもしれません。しかし『鎖国』は非現実的です。

江戸時代の日本が鎖国を実現できたのは、他国の勢力が「貿易しませんか?」と日本に持ち掛けてきたときに、「帰れ!二度とくるな!」と要求できる圧倒的な武力があったからです。事実、日本はある時期からポルトガルとの交流を一切拒否したのですが、ポルトガルは日本に黙って従うしかありませんでした。

しかし18世紀半ばに誕生した資本主義は、江戸時代の日本人の意識においては「夢の世界」だったインドを植民地にし、「世界の全て」だった中国(清)まで半植民地にして、日本に迫ってきました。ペリーの黒船が来日した時の日本には、すでに「帰れ!二度とくるな!」と要求できる圧倒的な武力はなかったのです。

歴史の話をしたのは、わたしたちは鎖国時代には戻れないという当たり前のことを確認したかったからです。

わたしたちが参加しているグローバル社会においては、情報もお金も人材もコロナウィルスも世界中を移動するのが当たり前であり、他人を信頼して取引しなければ大きなチャンスを逃す「信頼社会」なのです。

都会に馴染めるか?

誤解を恐れずにいえば、安心社会とは「田舎」で、信頼社会とは「都会」です。田舎では鍵をつけなくても外出できるけれど、都会ではオートロックがないと安心して暮らせません。

ここにジレンマがあります。都会はオートロックがないと安心できない環境なのにも関わらず、他人を信頼しないと生活が成り立たなかったり、不便を強いられる可能性があるのです。

たとえば土日にマクドナルドを食べたければ、UberEATSが便利です。しかしUberEATS配達員は見ず知らずの他人です。他人を信頼すれば便利な生活ができるけど、信頼しなければ都会ならではの利便性からは見放されてしまうのです。

ここで問題になるのは、安心社会の『有効期限』が切れたからといって、誰でも簡単に信頼社会になじめるのか?ということです。

あなたは・・・・・転校してもすぐに友達をつくれるでしょうか?転職してもすぐに同僚と信頼関係をつくれるでしょうか?引っ越してもすぐに「ご近所さん」と助け合えるでしょうか?見ず知らずの他人を信頼して交流したり、ビジネスができるでしょうか?

信頼性検知能力

安心社会でサバイバルする上で必要な能力が「関係性検知能力」であることを説明しました。では信頼社会でサバイバルする上で必要な能力はなんでしょうか?

ズバリ答えは【信頼性検知能力】です。

信頼性検知能力とは、信頼していい相手とそうでない相手を見分ける能力のことです。信頼性検知能力が高い人ほど、他人を信頼してWIN-WINの状況をつくる可能性が高く、なおかつ他人を信頼して騙されて損をする可能性が低いことがわかっています。

念のため伝えておきますが、信頼性検知能力の高い人(以下、高信頼者)は、決して「お人よし」ではありません。高信頼者は、他人が本当に信頼できるのかどうかに対して敏感で、その人に何か問題がありそうだと思うとすぐに評価を変える柔軟性をもっています。

つまり高信頼者は、単なる「お人よし」どころか、「シビアな観察者」なのです。

その一方で信頼性検知の力の低い人(以下、低信頼者)は、悲観主義者です。低信頼者は、最初から「他人は信じられない」、「他人は裏切る」と決めつけているので、他人にそれほど興味をもたないのです。

ですから他人の悪い情報が入ってきても、低信頼者は他人への評価を変えることがありません。つまり低信頼者は、「悲観主義者」でありなおかつ、「他人に興味をもたない人」なのです。

経験の積み重ね

もしあなたが・・・・・アルフレッド・アドラーの「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」、裏を返せば、「人間の幸福もまた、すべて対人関係の幸福である」という思想を受け入れて、なおかつ「安心社会の有効期限は切れた。これからは信頼社会を生きるしかない。」という現実を受け入れるなら・・・・・

あなたが鍛えるべきは「関係性検知能力」(空気を読む能力、他人の顔色をうかがう能力、忖度する能力)よりはむしろ「信頼性検知能力」です。では信頼性検知能力を鍛えるためにはどうすればいいのでしょうか?

悪い情報と良い情報があります。

悪い情報は、信頼性検知能力を鍛えるためには、「経験の積み重ねしかない」ということです。良い情報は、信頼性検知能力は「誰でも鍛えることができる」ということです。

信頼性検知能力を鍛えなければどうなるでしょうか?

信頼検知能力が低いと、「ネガティブ・スパイラル現象」ともいうべき状況にハマります。

低信頼者であっても、ときには他人との協力関係を結ぼうと考えます。しかし低信頼者は、他人の信頼性を正確に予想する能力がないので、相手に騙されてしまう可能性が高いのです。

相手に騙されれば、低信頼者はますます他人を信頼しなくなってしまうので、さらに他人の信頼性を検知する能力が育たないという結果になってしまいます。これが「ネガティブ・スパイラル現象」のカラクリです。

一方で高信頼者は、他人の信頼性を正確に予測できるのでWIN-WINの関係を構築する可能性が高く、ますます信頼社会に適合することができます。その結果、高信頼者には「ポジティブ・スパイラル現象」というべきものが起きて、信頼社会のなかで幸せを獲得するチャンスを拡大していくことができるのです。

あなたは信頼性検知能力を鍛えることができるでしょうか?

他人を信頼できるか?

信頼社会をサバイバルする上で、「信頼性検知能力」が重要であることを明らかにしました。しかし「他人を信頼せよ!」とアドバイスしても、「よし!他人を信頼する人生を歩もう!」と決意し、実践できる人はほとんどいないと思います。

たとえば日本の学校では「みんな仲良し!」というスローガンを掲げていますが、現実には「みんな仲良し!」は実現されていません。事実、いつまでもイジメはなくなりません。

また「全社一丸となって!」というスローガンを掲げる企業もありますが、現実には「全社一丸となること」は困難です。事実、会社組織内部での派閥争いは日常茶飯事です。

さらに国が「頑張ろうニッポン!」というスローガンを掲げても、現実には「権力者たちは、自分の利益しか考えていないのでは?」という国民の不信感は根強いものがあります。事実、さまざまな国の事業では、税金の中抜きが当たり前になっています。

残業の多いわたしの友人も、奥さんから「不倫しているのではないか?」という疑惑をかけられて、GPSで居場所を監視されるようになったそうです。家族ですら信頼できない「不信ベース」の社会の中で、どうすれば「他者を信頼する」なんてことを実践できるのでしょうか?

アルフレッド・アドラーの思想にヒントがあります。アルフレッド・アドラーは、「他者信頼」のためには「自己受容」が必要であり、「自己受容」のためには「他者貢献」が必要であり、「他者貢献」のためには「他者信頼」が必要であると説いています。

たとえば、あなたが他人に親切にして喜んでもらえれば(他者貢献)、自分に自信をもつことができて(自己受容)、他人を信頼する勇気(他者信頼)をもてるようになり、次の他者貢献にもつなげられる・・・・・というわけです。

あなたは「他者貢献⇒自己受容⇒他者信頼」⇒「他者貢献⇒自己受容⇒他者信頼」⇒・・・・・⇒「他者貢献⇒自己受容⇒他者信頼」のスパイラルを回すことができるでしょうか?

もちろん「他人に貢献せよ!、そのために他人を信頼せよ!、そのためにありのままの自分を受け入れよ!」とわたしがアドバイスしても、あなたの心には響かない可能性が高いことはわかっています。なぜならば・・・・・

説教で人は変われない

人類の長い歴史を振り返って断言できることがあります。それは「お説教」では世の中は変わらないし、きっとあなたも変われないだろう・・・・ということです。

たとえば戦時中の日本陸軍では「暴力は禁止」でした。A級戦犯として裁かれた東条英機は、「暴力は禁止」という命令まで下しています。しかし日本陸軍の暴力はなくなりませんでした。

また旧統一教会は、宗教二世の子どもに対し「恋愛は殺人よりも重い罪になる」というイデオロギー教育を徹底しました。しかし恋愛することは止めようと思っても止められなかったのです。

さらにソ連や中国などの社会主義・共産主義国は、何の見返りもないのに同胞に奉仕する「博愛精神」にあふれた立派な人民をイデオロギー教育によって作り出せると信じました。しかしそうした教育はついに成功することなく、ソ連は消滅し、中国もまた大きな方向転換をせざるをえなくなりました。

「みんな仲良し!」、「全社一丸となって!」、「頑張ろうニッポン!」、「暴力は禁止!」、「恋愛は禁止!」、「博愛精神!」とスローガンを掲げて、「明日から実践しろ!!!」とあなたに命令することは無意味とはいいませんが、それだけで人間が変わり、社会が変わるなら、わたしたちの世界はもっと良くなっているはずです。

しかし現実はそうなっていないのです。

同様にあなたが・・・・・「わたしは変わりたい!」、「お金持ちになりたい!」、「痩せたい!」、「幸せになりたい!」、「自由になりたい!」などと願い、その実現のためにわたしが「他者貢献」・「他者信頼」・「自己受容」の重要性をいくら叫んでも、きっとあなたの心には響かないでしょう。

あらゆる問題を精神論で片付けようとしても無理があるのです。精神論でうまくいくなら、ダイエット・禁煙は必ず成功するはずだし、浮気もゼロになるはずだし、受験勉強に集中できない学生や、仕事に集中できない社会人もゼロになるはずなのです。

そもそも精神論に基づく「お説教」に無理があるのは、一体なぜなのでしょうか?

タブラ・ラサの神話

20世紀の社会科学における最大の誤りの一つは、「タブラ・ラサの神話」を信じたことにありました。タブラ・ラサとはラテン語で「白板」のことです。

つまり生まれたての赤ちゃんの心は、何も書き込みのないホワイトボードのようなものであって、そこに適切な教育を与えることで「立派な人間」がつくれるはずである・・・・・と考えるのが「タブラ・ラサの神話」の発想です。

旧ソ連や中国といった国々が、イデオロギー教育によって何の見返りもなくとも同胞に奉仕するような立派な人民を作り出せると信じたのも、結局はこの「タブラ・ラサの神話」と同じ発想が根底にあったからでしょう。

しかしそうした教育はついに成功することはなく、ソ連は消滅し、中国も大きな方向転換をせざるを得なくなりました。皮肉にも、中国が言論統制や監視を徹底し、賄賂や汚職を厳しく取り締まっていること自体が、「タブラ・ラサの神話」の誤りを裏付けているのではないでしょうか。

残念ながら「人間の心は、教育によって、いかようにも作り変えることができる」という考えはまったくの誤りだったのです。教育で知識を教え込むことは可能でも、人間性に反した形に心を作り変えることはできないのです。教育は万能ではないのです。

「タブラ・ラサの神話」をベースにしたイデオロギー教育は、なぜ失敗したのでしょうか?

心は進化の賜物

「タブラ・ラサの神話」をベースにしたイデオロギー教育が失敗した理由はシンプルに、「人間の心はホワイトボードではなかったから」です。

わたしたちのカラダのすべての部分は、脳も含めて生命進化のなかで作られてきたものです。人間に指が5本あるのも、目が2つあるのも、それがわたしたちの生存にとって必要だったからにほかなりません。

つまり目にも手にも脳にも、それぞれの役割や働きが生まれながらにして与えられているということです。目で音を聞くことはできないし、手で息を吸うことは不可能です。

同様に、人間の脳の働きや役割も生命進化のなかで作りだされたものであって、それを人間の都合で勝手に変えることはできないのです。

人間の心には、あらかじめ組み込まれている「人間性」(生きるためのプログラム)があるのです。ですから人間性(生きるためのプログラム)を無視した教育を施しても効果が得られないのは、当然のことなのです。

人間性を利用する

ここまでの議論を理解したあなたは、「人間の心に生きるためのプログラムがあらかじめ仕込まれているのであれば、教育も社会改革といった努力も意味がないのでは?」と疑問をもつかもしれません。

たしかにわたしたちの人間性の本質がすでに進化の流れのなかで決まっているのであれば、人間が何をやっても意味がない・・・・・そう悲観的に考えることも無理はないことでしょう。しかしわたしはそうは思いません。

たしかにわたしたちの「人間性」(生きるためのプログラム)をすべて教育によって上書きすることは不可能でしょう。しかし「人間性」(生きるためのプログラム)を利用することは可能だと思うのです。

たとえば自然法則を無視して、人間が空を飛んだり、念力だけで病気を治すことは不可能でしょう。しかし自然法則を利用して飛行機をつくることや、薬を開発し病気の治療に役立てることは可能なのです。

同様に、人間性(生きるためのプログラム)を無視して、人格をゼロから作り直すことは不可能でしょう。しかし人間性(生きるためのプログラム)を利用して、他人を信頼することや、他者のために貢献することは可能なのです。

では人間性(生きるためのプログラム)とは、一体、どういうものなのでしょうか?

5円のキャベツ

「人間性」は、しばしばわたしたちの直観を裏切ります。たとえばコチラ↓↓↓

経済学の父アダムスミスの「神の見えざる手」によれば、価格を高くすれば需要は減り、価格を安くすれば需要は増えるはずです。

しかし価格を安くしすぎると「安すぎる商品は逆に怪しい」という「人間性」(生きるためのプログラム)が発動し、購買活動にブレーキをかけてしまうのです。

また痩せたいのになかなか痩せられないのは、「餓死しないために余分なカロリーを確保すべし」という「人間性」(生きるためのプログラム)が、ダイエットにブレーキをかけてしまうからです。

では・・・・・・他人を信頼し、他人に貢献し、結果として自分を変えていくためには、どのような形で人間性を利用すればよいのでしょうか?

漫画の神様

漫画の神様といわれている手塚治虫先生は、編集者から「まだですか」「いつできますか?」「大丈夫ですか?」とプレッシャーをかけ続けられた経験から、「もし、編集者さんがいなかったら、私が描いた漫画の半分は、生まれていなかった」と言っていたそうです。

他にも受験勉強が熾烈なのは「卒業」という締め切りがあるからです。また就職試験が熾烈なのも「新卒一括採用」というシステムが、「卒業後●●年以内であれば新卒」という締め切りを設定しているからです。

どうやらわたしたちの「人間性」(生きるためのプログラム)には、締め切りを設定するだけで行動がうながされるようなプログラムが書き込まれているようです。

5円のキャベツも「3年間務めた高校生アルバイトによる1日限りの卒業記念キャンペーン」という名目があったなら、売れ残ることはなかったかもしれません。

またいつもダイエットに失敗する人でも、「気に入ったウェディングドレスを着こなしたい!」という切迫した理由があれば、なんとしてでも痩せようとするでしょう。

そう。締め切りのパワーは絶大なのです。しかし・・・・・社会人になると「締め切り」を決めてくれるシステムがなくなり、締め切りを設定するもしないも個人の自由になります。

とはいえ、締め切りを自分で決めないとどうなるでしょうか?おそらくたくさんのチャンスを逃すハメになるでしょう。

たとえばわたしの知人にイタリアのローマに3年間も住んでいたのに、1回もバチカン美術館に行かなかった人がいます。知人曰く、「いつでも行けると思っているうちに、チャンスを逃した」とのこと。

あなたは締め切りを設定しているでしょうか?

人生の締め切り

人生の締め切りはある日突然やってきます。人生の締め切りを自分で完全にコントロールすることはできません。ある日突然、事故死するかもしれませんし、ガンで余命宣告されるかもしれません。

「いつ死ぬかわからないから気ままに生きる」という人もいるでしょうが、いつ死ぬかわからないからこそ、「締め切り」がもたらす強力なパワーを積極的に利用して、悔いのない人生を過ごすべき・・・・というのが私の意見です。

老後に「終活」する人がいますが、『青春を過ぎたらすぐにでも終活すべき』というのがわたしの意見です。なぜならば青年に未来はなく、青春時代を過ぎてはじめて未来について真剣に考えることができるからです。

こういうと「未来は青年のもの」の間違いではないかと思われるかもしれませんが、これは大人がそう思っているだけのことであって、青年自身の意識に「未来」はないのです。

青年にとっては、今がすべてであって、将来なんかどうでもいいのです。裏を返せば、将来のことがやけに気になるようになったら、あなたは大人になったということです。

「終わり良ければ総て良し」ということわざがあります。裏を返せば、「終わり悪ければ総て悪し」ということです。

人生の「締め切り」を意識して、ちょっと考えてみてください。あなたの葬式の時に読み上げられる弔辞(ちょうじ)は、どのような内容であってほしいでしょうか?

まとめ

信頼社会が到来したことで、かつて安心社会の必須スキルだった「関係性検知能力」の有効性が失われ、「信頼性検知能力」が求められるようになった・・・・・という話をしました。

「信頼性検知能力」は、誰でも鍛えることができるけれど、そのためには経験の積み重ねが欠かせないこともお伝えしました。

信頼性検知能力を鍛えるための経験とは、他人を信頼し(他者信頼)、他人に貢献し(他者貢献)、自分を受け入れる(自己受容)を高める一連のポジティブ・スパイラルであるということもお伝えしました。

とはいえ、「他人を信頼せよ!」、「他人に貢献せよ!」、「ありのままの自分を受け入れよ!」とスローガンを掲げるだけでは絵空事に終わる可能性が高いことも指摘しました。

そして「信頼性検知能力」を高める「ポジティブ・スパイラル」を回す秘訣は、「人間性」(生きるためのプログラム)に逆らうのではなく利用することであることもお伝えしました。

「人間性」(生きるためのプログラム)には、いろいろなものがありますが、一つの例として「締め切り」の効用を紹介しました。

たとえば「いつか親孝行したい」と考えているから、いつまでも親孝行できないのです。同様に「いつか●●できる」と考えているから、いつまでも●●できないのです。あなたは締め切りを意識していますか?

あなたがやるべきことはシンプルです。「人間性」(生きるためのプログラム)を利用して、「他者信頼 ⇒ 他者貢献 ⇒ 自己受容」のスパイラルを回すだけでいいのです。

そうすればあなたの「信頼性検知能力」は自然と磨かれ、他人に裏切られる可能性よりも、他人とWIN-WINの関係性を構築できる可能性は高まっていくはずです。

あなたの周りに「あなたが必要だ」という人が増えれば増えるほど、あなたの他者を信頼する勇気は刺激され、他者に貢献することでますますあなたは大きな存在になっていくことでしょう。

結果として、あなたは対人関係から「悩み」よりも「幸せ」のほうを多く引き出すことができるはずです。あなたが信頼社会における『勝ち組』になることを祈っています。