【はじめに】
毎日楽しく生きるにはどうしたらいいのか??そればっかりは誰も教えてくれませんでした。
いろいろな出会いがありましたが、思い返せば両親も先生も先輩も上司も、誰も彼も、いろいろなことを教えてくれましたが、そのほとんどは、ただの押し付けでした。わたしが本当に必要としている「毎日楽しく生きる戦略」については誰も教えてくれなかったのです。
わたしは知らないことを知ることが大好きな知的好奇心旺盛な人間です。だからたくさんの本を読み、たくさんのセミナーに参加しましたが、そのほとんども同じようにただの押し付けでした。「毎日楽しく生きる戦略」について教えてくれる出会いは本当に少なかったのです。
わたしは学生のときから「毎日楽しく生きる戦略」について考え始めて、社会人になり脱サラしてからもずっと「毎日楽しく生きる戦略」について考えてきました。そしてようやく「毎日楽しく生きる戦略」がわかってきたように思います。
考えてみればそれは本当に簡単なことだったのですが、残念なことにわたしが受けた教育や学んだ学問や社会人になってからのあらゆる経験は、この簡単なことを隠蔽するように構成されていました。ですから、この簡単なことを見出すのにとても苦労しました。
本レポートはわたしが見出した「毎日楽しく生きる戦略」の核心となる情報を紹介することで、あなたの手であなたの人生をいい方向に変えるきっかけになればいい・・・という願いを込めて執筆しました。
わたしが見出した「毎日楽しく生きる戦略」は、わたしがざまざまな本を読み、海外で生活した経験をもとにあれこれ考えて、多くの人と対話して、そのうえいろいろと行動した結果、かなり使えることはわかっています。
今回レポートで紹介する情報は、あなたに新しい気づきを与えることになると確信しています。興味がある方は是非とも最後までお付き合いください。
「あの人はなぜ●●なのだろうか?」と疑問に思ったことがないでしょうか?
●●のなかには「楽しそう」とか「悲しそう」といった感情をあらわす言葉や、「コロナが怖い(怖くない)」というような認識をあらわす言葉が入ります。
そう。コロナ禍において多くの人が、同じ状況に直面しているはずなのに、別の世界に生きているかのような行動をする人たちの存在を自覚したはずなのです。なぜそのような状況が生まれるのでしょうか?
その答えはズバリ、人の数だけ『現実』があるから、です。これは認知科学という学問の成果であり、「毎日楽しく生きたい」と願うあなたも理解しておく必要があることです。
認知科学「以前」は、一つの現実があり、その一つの現実の上にみんな生きているという常識がありました。しかし認知科学「以後」は、人の数だけ「現実」がある、という理解が常識になったのです。
あなたは驚くかもしれませんが、「地球は平ら」であることを真剣に主張する人たちのグループがあります。反論するのは簡単か?実はそれほど簡単ではありません。なぜならば地球は人間にとっては大きすぎるので、本当に地球が球体であることなど、宇宙飛行士でもない限りは自分の目で確認することができないからです。
同様に「コロナウィルスなんてこの世にない」と真剣に主張する人たちもいます。反論するのは簡単か?実はそれほど簡単ではありません。なぜならばコロナウィルスは小さすぎて人間の目には見えないからです。コロナウイルスを顕微鏡で確認した経験のある人はほとんどいないはずです。
しかしあなたは実際に目で見たわけでもないのに、「地球が丸い」ことを信じているでしょうし、「コロナウイルスはある」ことも信じているでしょう。そう。わたしたちは直接この目で確認したわけでもないたくさんのことを信じているのです。
さて・・・人の数だけ現実がある、という話をしたわけですが、この話が「毎日楽しく生きる」ということに、どのように関係があるのでしょうか???
人の数だけ現実がある、という話をした理由は、「人間は情報的な存在」であることを本当に理解してほしかったからです。そのことを理解してもらわないと、わたしがこれからあなたにお伝えするすべてのことが理解できないのです。「人間は情報的な存在」とはどういうことでしょうか?
例えばインドのカースト制度のなかで生きている人は、最下層にいる人たちですらそこから抜け出そうと思っていません。なぜならば「現世で苦しければ苦しいほど、来世で幸せになれる」ということを信じているからです。
人間は頭のなかで構築した世界を「現実」だと認識して行動しているのです。ここで重要なポイントは、頭のなかで構築した現実は、あくまでも「情報」だということです。
生まれた瞬間に「カースト制というものがあって、自分は最下層にいるので、現世では苦労しなければいけない。」とういうことを理解している子どもなどいないはずです。
しかし両親や教師から「そういうものだ。」と教えられて、その結果、「そういうものだ。」と受け入れた情報が、本当に子どもにとっての「現実」になってしまうのです。
人間は本当に情報的な存在なのです。
そう。わたしたち人間は生まれた時にDNAという遺伝子情報を受け継ぎ、成長する過程で、何が真実で何が真実でないか?ということを「教えられ」たり、いろいろなことを「経験して」育つのです。その集大成がわたしであり、あなたなのです。
「人間が情報的な存在」であることを理解すると、とてつもない可能性に気づくことができます。わたしたちの「現実」はすぐに変えられるのです。なぜか?それは「現実」は情報的なものだからです。
背が小さいとか顔が気に入らないなどの理由で、身長を伸ばしたり顔を整形するとなれば、物理的な手術が必要です。しかしわたしたちの「現実」を変えるのに必ずしも物理的な手術は必要ないのです。なぜか?繰り返しになりますが、「現実」は情報的なものだからです。
例えば「眠い・・・・」と感じているときに、あなたが好意をもっている異性から電話の着信があればその瞬間に眠気は吹っ飛ぶでしょうし、人生つまらないと思っていても宝くじが当たったことがわかればその瞬間に楽しいことを考えはじめるでしょう。
そう。あなたが「人生がつまらない」と思っているなら「人生がつまらない」と考えるのをやめればいいし、「生きるのがツライ」と考えているなら「生きるのがツライ」と考えるのをやめればいいのです。
あなたが「やりたいことがわからない」のであれば「やりたいことを設定」すればいいし、「やりたいことがあっても自分には無理だ」と考えているなら「自分にはできる」と考えるようにすればいいのです。
とはいえそれだけのアドバイスでは、具体的に何をしたらいいか?、何を考えたらいいか?、わからない人も多いと思うので、もう少し話を続けたいと思います。
生物である以上、「生きる」ことが前提になっているため、「なぜ?生きるのか?」ということは本来考える必要がないことですし、ここが重要なポイントなのですが、人間以外の動物は「なぜ?生きるのか?」ということを考えることがそもそも出来ないのです。
例えばチンパンジー。脊椎をケガして下半身が動かせなくなったチンパンジーにエサをあげるととても喜びます。チンパンジーは「今この瞬間」を楽しんでいるのです。
一方で人間はどうでしょうか?カラダを動かせなくなった人間に食料をあげても喜ばないかもしれません。「今この瞬間」を楽しむよりも「将来のこと」をアレコレと考えて凹んでしまうのが人間という生き物なのです。
そう。高度に脳が発達した人間だけが、「なぜ?生きるのか?」とか、「楽しく生きるためにはどうすればいいのだろうか?」という抽象的なことを思考することができるのです。そして思考の結論という「情報」によって、今この瞬間が楽しいか楽しくないが決まっているのです。
あなたは「毎日楽しく生きたい」と願っているでしょう。だから本レポートを読んでいるのでしょうし、あなたは究極的な幸せが「毎日楽しく生きること」であることに気づいているはずです。
しかし世の中の「常識」はそうではありません。「毎日楽しく生きる」よりも「いつか幸せになる」ことが推奨されています。「今この瞬間の幸せ」を放棄することによって、経済的な幸せを約束されることが世間一般での「幸せ」なのです。
例えば「今頑張って勉強して安定した職業につけば、将来の幸せが保証される」とか、「今頑張って仕事をして定年すれば、老後の生活は保障される」とか、そういった価値観に基づいて行動することが「幸せに続く唯一の道」であるかのように考えられています。
あなたは親から直接的に(例:石の上にも三年)もしくは間接的に(例:勉強しろ!!)にであれ、親からそう教わってきたかもしれないし、子どもがいればそのような価値観を教えてしまっているかもしれません。
あなたは世間一般の「常識」から自由になれるでしょうか?安心してください。「それ」を教えることが今回の目的なのですから。しかしわたしはどのような考え方であれ、あなたに押しつけたくないのです。
例えばカースト制を信じているヒンドゥー教徒に「カースト制とは別の考え方もあるよ」と教えても、「余計なお世話です!!!」と拒否されてしまうでしょう。同様にわたしはあなたに「毎日楽しく生きる作法」を一方的に教えて、あなたに「余計なお世話です!!!」と拒否されたくないのです。
もしあなたがこの続きに「興味ある」のであれば、このまま読み進めてください↓↓↓
そもそもなぜ毎日楽しく生きることができないのでしょうか?裏を返せば、なぜわたしたちは不幸を感じるのでしょうか?その原因はわかりきっています。
わたしたちが不幸を感じるのは「現在の自分」と「成功している仮想的な自分」を比較し、成功している仮想的な自分に軍配を上げるからです。
ハッキリと断言しておきたいのですが「成功している仮想的な自分」というのは存在しません。それにも関わらず、脳が高度に発達した人間だけは「あの時ああしていたら成功していたはずの自分」というものを想像し、それを現在の自分と比べることができてしまうのです。
「現在の自分」と「成功している仮想的な自分」を比較する・・・という高度な能力はサルやチンパンジーにはありませんので、人間ならではの悩みともいえるわけですが・・・・ちょっと考えてみればその不毛さが理解できるはずです。なぜでしょうか?
そもそも「あの時ああしていたら失敗していたはずの自分」もあり得るのに、失敗していた可能性は完全に排除して、わたしたちは常に「成功していた」ことを想定する傾向があります。もっと成功していたはずの自分と現在の自分を比較するのですから、必ず負けるのは明らかです。
そう。わたしたちは絶対に勝ち目のない比較をすることで、自分で自分を不幸にしているのです。だからもしあなたが不幸になるのをやめたければ、「現在の自分」と「成功している仮想的な自分」を比較するのをやめればいいのです。
勝ち目のない比較をやめれば悩みは消えます。しかし悩んでいる人のなかには、悩むこと(勝ち目のない比較)をやめないで、自分をやめることを選ぶ、つまり自殺をする人までいるのですから笑えません。
繰り返しになりますが、不幸な気持ちを一掃したければ勝ち目のない比較をやめることが重要です。とはいえ、「悩みが消えれば不幸は感じなくて済むかもしれないが、それで幸せになれるわけではないのでは?」と疑問に感じる人もいるでしょうから、別の角度から話を続けたいと思います。
世の中にはいろんな悩みを抱えた人がいます。大学受験に落ちた、志望企業に入社できなかった、出世できない、安月給で暮らしがキツイ、恋人にフラれた、子育てがうまくいかない、配偶者や親族との関係がうまくいかない、忙しくて自分の時間がない、友達が少なくて孤独、、、、etc
これらの悩みは「現在の自分」と「成功している仮想的な自分」との比較をやめればなくなりますが、悩みがなくなったからといって毎日幸せになれるわけではありません。現在の自分と仮想的な自分との比較はやめることができても、自分と他人との比較はなかなかやめることができないのです。なぜでしょうか?
自分と他人との比較がなかなかやめられない理由は、『社会的価値観というモノサシ』があるからです。社会的価値観というモノサシは、絶対的なものではありません。しかしそのモノサシを基準にして社会が回っているという側面もあるので、かなりの説得力をもっています。
例えば「お金」というモノサシがあります。お金だけが人生のすべてではないことはわかっていますが、お金があれば買えるものもたくさんあります。だから銀行預金通帳の数字がゼロに近づくと不安になり、銀行預金通帳の数字が増えると安心を感じるのです。
どうすれば「社会的価値観というモノサシ」から自由になれるのでしょうか?
悩みを消すもっとも簡単な方法は、「他人のせいにすること」です。例えば、大学受験に落ちたのは「親から受け継いだDNAのせい」などと親のせいにすることができます。
同様に、出世できないのは「上司のせい」、安月給なのは「景気のせい」、子育てがうまくいかないのは「教師のせい」、恋人にフラれたのは自分の魅力を理解しない「恋人のせい」、夫婦関係がうまくいかないのは身勝手な「配偶者のせい」・・・・・といった具合に、他人に責任を転嫁すればその瞬間は楽になれます。
しかし悩みを消すために「他人のせいにする」という方法はおススメできません。なぜならば人生の責任を他人に転化することはすなわち、「自分の人生は他人に操られていい」ということを認めることになるからです。
あなたは他人に自分の人生をゆだねてその結果、運が良ければ幸せな気分になり、逆に運が悪ければ不幸を感じるという博打のような人生を歩みたいわけではないでしょう?どうすれば人生の主導権を取り戻すことができるのでしょうか?
現代の日本社会は、何事にも偏差値をつけて、その価値観を多くの人に押し付けています。しかし「世の中の価値観」といったものは、空気のように当たり前のようにすでに存在しているため、そこに疑問を感じるきっかけすらつかめない・・・というのが現状です。
例えばオリンピック陸上競技の花形といえば100メートル走ですが、なぜ100メートルなのかといえば、そこに明確な答えがあるわけがありません。いつかどこかのタイミングで誰かが「そうしよう」と決めたのです。
あなたは陸上競技選手として活躍したければ、100メートル走を選ぶこともできますが、それがイヤであれば200メートル走を選ぶこともできるし、十種競技に挑戦することだってできるはずです。
わたしたちの社会も陸上競技に似ています。さまざまな「世の中の価値観」は、いつかどこかのタイミングで誰かが「そうしよう」と決めたものであって、わざわざわたしたちがその価値観を受け入れる必要もないのですが、逆に受け入れるのもまた自由なのです。
学歴がほしいなら手に入れればいい、資格やスキルが必要なら勉強すればいい、お金がほしいなら思いっきり稼げばいいし、孤独がイヤなら仲間をたくさんつくればいいのです。
しかし現実には「自分で選べる」という意識は芽生えてきません。「他人から押し付けられている」という感覚のほうが強いでしょう。そう感じるのも無理はありません。なぜでしょうか?
歴史を勉強すれば、学歴・お金・結婚制度・民主主義・資本主義・宗教など、絶対的なものだとわたしたちが錯覚しているもののすべてが、権力者があるタイミングで「そうしよう」と決めたものにすぎないことがわかります。
例えば学歴。受験戦争の発端は、読み・書き・算盤(そろばん)以上の教育に興味がなかった平民の教育熱を高めるために、明治政府が学歴をもって「社会階層」にすることを思いついたことにあります。
例えば憲法。国家権力を縛るものであるはずの日本国憲法に、国民を縛る「納税の義務」なるものが明記されている理由は、戦後のどさくさにまぎれて財務官僚が熱心にロビーイングしたからです。
例えばお金。お金は信用創造によって何もないところから生み出されています。銀行だけに信用創造が許されているのは、国家権力以上に銀行家の権力が絶大だからです。事実、日本でいうところの日銀にあたるアメリカの中央銀行(連邦準備制度)は民間銀行です。
例えば結婚。歴史を振り返れば、結婚と愛は何の関係もなかったことがわかります。本来の「愛」は結婚後に既婚者がやるものだったのに、恋愛小説の普及を機に結婚が愛の証明になり、いつしか誰も彼もが結婚するために『愛』を探すという逆転現象が生まれました。
まだまだありますが、これくらいでいいしょう。伝えたかったことはあなたの価値を測るための「絶対的なモノサシはない」ということです。まずはそこに気づくことが重要です。なぜか?
多くの日本人がお金や資産だと思っているものは本当の「お金」でも「資産」でもないのです。また多くの日本人が憲法・民主主義・資本主義だと思っているものは、本当の「憲法」・「民主主義」、「資本主義」ではないのです。
同様に、多くの日本人が愛や結婚だと思っているものは、本当の「愛」や「結婚」ではないのです。多くの日本人が人間関係や自立だと思っているものは、本当の「人間関係」でも「自立」でもないのです。
もっというなら多くの日本人が教育や宗教だと思っているものは、本当の「教育」や「宗教」ではないのです。。。。他にもまだまだありますが、このくらいでいいでしょう。
自分が「そう」だと思い込んでいることがたくさんあると、「それ」を満たすことができません。「それ」を満たすことができない・・・ということが続くとどうなるでしょうか?
答えは明らかです。いろいろなものを求めても探しても結局は手に入らないので、心を「幸せ」で満たすどころか挫折感・徒労感・無力感の三重苦に悩まされることになるのです。そうならないためにはどうすればいいでしょうか?
答えは明らかです。他人が歴史上のどこかのタイミングで「そういうことにしよう」と決めたシステムなのですから、そのシステムの仕組みを熟知して攻略法を発見し、実際に挑戦してみて手に入れてみるしかないではありませんか。
しかし残念ながら・・・実際に世の中がどのようにして回っているのか?という当たり前のことは、ほとんど誰も教えてくれないのです。なぜか?その答えは『窓際のトットちゃん』が教えてくれます。
徹子の部屋でもお馴染みの黒柳徹子さんは、小学生の時はいわゆる「落ちこぼれ」でした。しかし「トモエ学園」というミニスクールのおかげで、楽しい日々を送りながら成長することができました。(参考:黒柳徹子著『窓際のトットちゃん』)
もし「トモエ学園」がなかったら???黒柳徹子さんがタレントとして成功したり、ベストセラーを書いたりすることもなかったでしょうし、徹子の部屋という長寿番組が誕生することがなかったでしょう。
ここで重要なポイントは「トモエ学園」は戦後に再建されなかったということです。なぜか?答えは単純です。つくれなくなったのです。
日本の小学校は、1941年にヒトラー全盛にあったドイツの国民学校を手本にして「国民学校」に一本化されました。それにともない個人が勝手に小学校を設立する自由もなくなり、親が自宅で子どもを教えて学校にやらない自由もなくなりました。
そして1945年にはマッカーサーが乗りこんできて1947年には教育大改革がおこなわれたものの、文部省と日教組がガッチリとスクラムを組み、ヒトラー主義は戦後70年以上も経過した現代でも生き続けているのですが、その結果といえば・・・悲惨というしかありません。
日本の学校では「当たり前のこと」を教えてくれないのです。しかしそのことにほとんどの日本人が気づくことができないのです。だから苦労しているのです。こんなエピソードもあります。
ノーベル物理学賞の湯川秀樹博士が、政治思想学者の福田歓一(ふくだかんいち、東京大学名誉教授)と一緒に食事をしたときのことです。
福田歓一教授がふとこんなことをいいました。「憲法や議会は民主主義と何の関係もないのです。」と。この言葉には湯川秀樹博士ほどの学者もビックリ仰天。湯川秀樹博士は食事の最後に、こういったそうです。
「僕がこんなことも知らんのは、福田さんが教科書を書かんのが悪いんや」と。なぜ日本の学校では、民主主義を教えないのでしょうか?福田教授は自分のエッセイでこういっています。
(このような事実を)「はっきりさせたのでは、(教科書)検定を通る気づかいはない」と。なぜ検定に通らないのか?福田教授自身はそのことについて沈黙を守りましたが、その理由について推測すればこうなるでしょう。
「文部省の役人たちは、議会があって憲法があれば日本の民主主義は安心だと国民に思わせておきたいから。」
そろそろ本レポートのまとめに入りましょう。「毎日楽しく生きる作法」のコツは2つあります。「諦め続けること」と「満たし続けること」です。
何を諦め続けるのか?それは「(現在の自分より)成功している仮想の自分」という存在しないものを想像し、自分と比較して凹むことを諦めるのです。
何を満たし続けるのか?それはあなた次第です。世の中の価値観に沿って満たすものを決めてもいいし、自分の価値観に沿って満たすものを決めてもいいのです。
諦め続けることと、満たし続けることを同時にやると毎日が楽しくなります。まるで子どもの時、「明日はディズニーランドにいく」というときのようにワクワクします。
ここは重要なポイントなので丁寧に説明しておきましょう。「毎日が楽しくなっている状態」がどういうものなのか理解を深めてほしいのです。
ちょっと想像してみてください。明日は待ちに待った旅行の初日です。行き先はハワイ。大自然と美味しい食事があなたを待っています。どうでしょうか?もし本当に明日から旅行にいけるなら、「今」、楽しいのではないでしょうか?
旅行をした経験のある人はその時のことを思い出してください。旅行のための準備はそれなりに大変なはずですが、旅行のために必要なあらゆる準備だって苦痛に感じなかったのではないでしょうか??
むしろ他人から「旅行にいくな!!飛行機が墜落するかもよ?」などとネガティブなことをいわれても、あなたは準備をやめなかったのではないでしょうか?
そう。もし本当に心の底から実現したいこと(例:旅行)があって、それが現実に起こると確信することができたら(例:明日から旅行)、旅行は明日からのはずなのに「今」の時点ですでに幸せな気分にひたれるのではないでしょうか?「どうしたら幸せになれるのか?」という質問すら頭に浮かばないのではないでしょうか?
そう。『本当に心の底から実現したいこと』があって、それが『現実に起こると確信する』ことができたら、今やるべきことがわからないということはないでしょうし、やるべきことをやっている今この瞬間に幸せを感じることができるだけでなく、ものすごいパワーを発揮することができるのです。例えば・・・
昭和の時代にテレビ番組や漫画『空手家バカ一代』で有名になった大山倍達(おおやま ますたつ)氏は、空手初といわれる数々の実績を残した人物です。
例えば『牛を素手で倒す』などの実績がありますし、『ビール瓶の首にあたる部分を手刀でスパッとはねる』などの技をはじめて公開したのも大山倍達氏の実績です。
大山倍達氏はビール瓶割りの技をどうやって身につけたのでしょうか?
大山倍達氏が20代半ばの頃、東京・新宿で飲んでいるときにヤクザの集団ともめごとが起こりました。機先(きせん)を制することが一番だと考えた大山倍達氏は、ビール瓶を思い切り叩き、ヤクザものたちを一喝したのです。
大山倍達氏のあまりの剣幕にヤクザものたちも矛を収めその場は事なきを得たのですが、大山倍達氏はとり散らかったコップや酒瓶のなかに、首の部分が何かで切り落とされたようにスパッととれているビール瓶を発見しました。
その時大山倍達氏は「空手でビール瓶の首をはねることができる」と思い立ったのです。そしてこのエピソードには後日談があります。
大山倍達氏はその後、ビール瓶割りを再現しようと修練に励んだのですが、ビールのガラス瓶はなかなか思うようには割れてはくれません。
そこで大山倍達氏が弟子たちの前でデモンストレーションする際には、あらかじめビール瓶にキズをつけて、あたかも手刀の一撃でスパッと割れたように見せていたというのです。
もちろんキズがついていたとしてもガラス瓶の首をスパッと割るなんてことは誰にでもできることではないのですが、面白いのは「内緒の話」ではなく、弟子たちの反応のほうです。
大山倍達氏がビール瓶の首を手刀でスパッと割るデモンストレーションを目撃した弟子たちは、これぞ空手の真髄だと驚き「極真空手にはそれができる」と信じたのです。
するとなんと・・・弟子たちは手刀の一撃によって、何の細工も加えていないビール瓶の首を、本当にスパッと落とせるようになってしまったのです!!!
大山倍達氏とその弟子たちのエピソードで、わたしがあなたに伝えたかったことは、どのようなことでしょうか?それはもちろん・・・・
「本当に心の底から実現したいこと」(ビール瓶を手刀でスパッと割る)があって、『現実に起こると確信する』(極真空手にはそれができる)ことができたなら、その瞬間から幸せになれるだけでなく、ものすごいパワーを発揮できるということです。
あなたが「毎日楽しく生きる作法」を実践するということは、「いつか幸せになるために、今頑張る。」(しかし本当に将来幸せになるかどうかは、誰も保証してくれない。そしてもし不幸になったら他人や社会を恨む)というパラダイムから、「今も幸せだし、明日はもっと幸せだろう・・・という確信を深めながら生きる」というパラダイムに移行することを意味しています。
例えば『ビール瓶割り』を再現しようと修練に励んだ大山倍達氏の弟子たちは、厳しい修行をしている最中だって楽しかったはずです。あなたもそのような毎日を過ごすことができるのです。
しかし「毎日楽しく生きる作法」というものを本当に実践できる人はわずかです。なぜでしょうか?
それはほとんどの人が「やりたいことなんて見つからない」とか、「やりたいことがないわけではないが、それが自分にできるとはどうしても信じられない。」という状態から抜け出すことができないからです。なぜでしょうか?
戦後日本の「民主主義教育」における「平等」とは、「みんな同じでなければならない」と、とんでもない最低の誤解をしています。この誤解が教育の諸悪の根源といっても言い過ぎではないでしょう。
「みんな同じでなければならない」ゆえに、教師も保護者も「どの生徒とも同じように接しなければならない」ということが常識だと盲信するようになります。これはつまるところ個性の否定であり『教育の死』なのですが、そのことを熱心に指摘する人はほとんどいません。
教育の常識以前の鉄則は、個性教育です。孔子も「人によって道を説く」という言葉を残しているではありませんか。しかし日本には個性教育はありません。トモエ学園はもう存在しないのです。
だから・・・・「ゲームはするな。友達と遊ぶ時間があるなら受験勉強しろ。」、「徒競走に順位をつけるのはオカシイ」という主張が、まるでマトモであるかのように通用してしまうのです。
勉強には順位をつけるのに、ゲームや徒競走には順位をつけない????ということはすなわち、勉強ができるだけの子どもを優遇し、それ以外の子どもの自尊心の源になるリソース(資源)を奪っているのです。
子どもからやりたいことを奪い続ける教育からは梅原大吾(日本初のプロゲームプレーヤー)のような人物は生まれないでしょうし、「やりたいことがわからない」という大人がたくさんいるのもうなづけます。
そして子供から個性を奪う教育はもっと重大な副作用をもたらしているのです。
内田樹(うちだたつる:神戸女学院大学名誉教授)先生は大学で繰り返し同じ質問をされるそうです。「何のために勉強するのですか?」、「この知識は何の役に立つのですか?」と。
ある国立大学で集中講義をしたときも、その大学の新聞部の学生からインタビューを受けたのですが、最初の質問が「現代思想を学ぶことの意味はなんですか?」というものだったそうです。
内田樹先生は「学生の傲慢さと無知さにほとんど感動した」と述べています。なぜ感動したのか?それは「現代思想を学ぶことの意味はなんですか?」と質問した学生の意図を考えれば明らかです。
この学生の質問の意図はこうです。もし内田樹先生が現代思想を学ぶことの意味について説得力のある回答をしたら「学んでもいい」が、逆に納得できなければ「学ばない」と宣言しているのです。
学生は大学にお金を払っているわけですから、コスパよく知識を学習したいと考えているでしょう。だから「何のために勉強するのですか?」、「この知識は何の役に立つのですか?」と質問するのもうなづけます。しかし学生の考え方は、本当は間違っているのです。なぜならば・・・・
小さな子どもは30cmの「ものさし」で世の中のすべてのものを測れると信じています。だから「モノサシ」で測れないもの、例えば重さとか光量とか重力とか弾力といったものの意味を30cmの「ものさし」で測ろうとするのです。
「何の役に立つのか?」という問いを立てる学生も同じ罠にはまっています。「何の役に立つのか?」を判断できると信じているということは、その人の価値観の正しさをすでに自明の前提にしているのです。
いわば「私」に有用か無用かの判断ができると主張しているわけですが、その肝心な「私」の有用性の判定の正しさは誰も保証してくれないのです。しかし傲慢さと無知ゆえに大学生になっても(社会人になっても)そのことに気づくことができないのです。
「何のために勉強するのですか?」、「この知識は何の役に立つのですか?」という質問に対して、そもそもなぜ納得できる答えがあると信じているのでしょうか?
それはおそらく日本の教育が「偏差値」や「学歴」という一つのモノサシで人間を測り、なおかつ答えのある問いばかりを学生に繰り返してきたからでしょう。しかし現実には・・・・
問いに答えがあるとは限らないし、答えがあっても発見できるとも限らないし、質問したところで誰かが答えを教えてくれるとも限らないし、質問して得られた答えが正しいという保証もないのです。
「毎日楽しく生きる作法」を実践するためには、「諦める(続ける)」ことと「満たす(続ける)」ことが重要なポイントでした。そして「満たす」ためには社会システムのカラクリを熟知することが大前提であることを説明しました。
社会システムのカラクリを熟知した上で、「本当に心の底から実現したいこと」に気づき、『現実に起こると確信する』ことができたなら、その瞬間から幸せになれるだけでなく、ものすごいパワーを発揮できる・・・ということも説明しました。
しかし残念ながら・・・・「毎日楽しく生きる作法」を実践できる人は少ないのです。その理由も説明しました。日本の学校教育では「社会システムのカラクリ」は教えてくれないし、「やりたいこと」を応援するどころか個性を殺すのが当たり前で、何かに挑戦しようとしても「やめたほうがいい。それが君のため。」といわれてしまうのです。
だから「何から手をつけていいかわからない」、「やりたいことなんて見つからない」、「やりたいことがないわけではないが、それが自分にできるとはどうしても信じられない」という日本人が大量生産されているのです。
実はわたしもそういう日本人のうちの一人でした。社会人になってからは特に「何から手をつけていいかわからない」、「やりたいことなんて見つからない」、「やりたいことがないわけではないが、それが自分にできるとはどうしても信じられない」というような悩みと戦ってきました。
しかし自分の人生を諦めるわけにはいかないので、もがき続けてきました。たくさんのお金と時間を費やしました。たくさんの出会いや試行錯誤の末に「毎日楽しく生きる戦略」を実践できる環境を運よく手に入れることができました。
わたしはやりたいことしかやっていません。いつも遊んでいます。でも真剣に遊んでいます。本を読むときも映画を鑑賞するときも食事をするときも運動するときも仕事をするときも自転車のチェーンを掃除するときもパイプ煙草に火をつけるときも楽しくやっていますがいつも真剣です。
もちろん本レポートの執筆もやりたいからやっています。だけど真剣です。なぜ真剣にやっているのか?それは今のわたしの興味が「毎日楽しく生きる戦略」を実践する人をひとりでも多く増やすことにあるからです。だからわたしが学んできた知識を伝授することにしたのです。
「毎日楽しく生きる戦略」を実践する上で必要な知識とは、具体的にはどのようなものなのでしょうか?そのヒントは、アメリカの人気ドラマ『24』の主人公ジャック・バウアーが教えてくれます。
『24』を観てください。ジャック・バウアーはテロ組織と戦いながら、家族からの電話にもマジメに対応しています。なぜならばジャック・バウアーにとっては、仕事も家族も同じくらい重要だからです。
わたしにとっても「仕事」、「人間関係」、「お金」、「趣味」、「生涯学習」、「社会貢献」などは全部重要です。「どれか一つ満たせばそれでいい」というわけにはいきません。だからコツコツと情報収集し、いろいろなことを実践してきました。
あなたにとっても「仕事」、「人間関係」、「お金」、「趣味」、「生涯学習」、「社会貢献」などは全部重要でしょう??とはいえゼロから自分で勉強するとなると、それなりに大変ですしお金も時間もかかります。
いろいろなことをコツコツと学習していく大変さは、わたし自身がこれまで痛感してきたことです。いくらお金を使ったのか?どれだけの時間をかけたのか?正直な話、今となってはよくわからないぐらい多くの資源を投下してきました。時には数十万円~100万円以上もする勉強会やセミナーに参加することもありました。
しかも一般的に、一つのセミナーやコミュニティーでは、一つのことしか学べません。ビジネスならビジネス。お金ならお金。コミュニケーションならコミュニケーション。コーチングならコーチング。といった具合です。
しかし実は・・・・それらを別々に学習するのは効率が悪いのです。なぜならばそれらはそれぞれが独立しているわけではなく、それぞれには関連性があるからです。だからせっかく学習するなら同時に学んだほうがいいのです。
そこでわたしがこれまで培ってきた「あらゆる知識」を効率よく学習してもらえるプラットフォームとしてオンラインコーチングプログラムを提供することにしたのです。
わたしがコツコツ培ってきた知識は、オンラインコーチングプログラム上で提供しています。とはいえ「毎日楽しく生きる戦略」を実践するということは、あなたにもあなた自身を変革する意志がなくてはいけません。
現在、会員制サイトは一般募集はしていません。次回の募集時はメールマガジンでお知らせしますので、楽しみにしておいてください。それではまたメルマガでお会いしましょう!!!