メシア ~ 預言者の役割

メシア

オリンピック中止という世論に対して、竹中平蔵氏が「そこまで言って委員会NP」(2021年6月6日、読売テレビ)で「世論が間違っていますよ」などとコメント。

世論が間違っているのであれば誰が正しく導いてくれるのでしょうか?今回はそんなことを考える上でうってつけの作品を紹介したいと思います。

予告動画)メシア

ユダヤ教の論理

そもそもなぜ?救世主が必要だと考えられているのでしょうか?旧約聖書を読んでわかることは、ひらたくいえば『人間がバカ』だからです。ではバカな人間は何を求めているのでしょうか?それは社会革命です。ユダヤ教を例に挙げるのがわかりやすいのではないでしょうか。

古代ユダヤ教が誕生したのはユダヤ人がバビロン捕囚の時代でした。ユダヤ人はエジプト、メソポタミア諸国、ヘレニズム諸国、ローマなどの強大かつ高文明の辺境における賤民(せんみん:制度上、最下層の身分に定められた人民、奴隷)であるのが原則でした。なぜ?ユダヤの民は悲惨な目にあわなければならないのでしょうか?

旧約聖書を要約するとこうなります。「ユダヤの民が神との契約を守らなかったから」。契約を守ったらどうなるか?答え:「神はどんな奇跡を起こしてもユダヤの民を救ってくれる。」逆に契約を守らなかったら?答え:「ユダヤの民を救ってくれない」。例えばモーゼは神の言葉に一言そむいただけで民のリーダーたる資格を奪われました。

では神はいかにしてユダヤの民を救済してくれるのでしょうか?それは「契約の更改」を通じて。では「契約の更改」とはなにか?それは神はユダヤの民と今よりも有利な条件で契約を結び直してくれること。契約の更改によって、賤民に甘んじているユダヤ人の民が世界の中心においてその主人になれるというのです。

では預言者の存在意義とは?答え:「契約の更改」のために、ほうっておいたら契約を守らないユダヤの民のお目付け役。というのがユダヤ教の論理です。

マルクスの歴史観

「契約の更改」という考え方の前提には、「現代は歴史の次の段階に対する一段階である」という思想があります。マルクス主義がその代表例です。マルクス主義において歴史は、「原始共産制」⇒「古代奴隷制」⇒「封建制」⇒「資本制」⇒「社会主義」となり、その段階のそれぞれにおいて異なる法則が働くという発想があります。

しかしそのような発想をする宗教は他にはありません。儒教やヒンドゥー教は「歴史は永遠の繰り返し」という発想をするし、中国においても『歴史は統治者の鑑(かがみ)』であると考えられています。『歴史は統治者の鑑』とは、歴史を振り返れば政治の法則があり、その法則を見つけることができれば、良い政治ができるというのです。

では日本にはどのような考え方があるのでしょうか?日本にはマルクス主義的な思想(現代は歴史の次の段階に対する一段階であり、段階ごとに働く法則も異なる)も、中国的な発想(歴史は永遠の繰り返しであるから法則を見つけることが為政者の役割)もありません。

日本人は何に対して祈っているのか?それは「ごくごく身近な人間関係における利益のため」でしょう。だからオリンピックが「平和の祭典」であるだなんだといわれても、日本人にはピンとこないのです。

不断の努力によって

冒頭の話に戻ります。もし日本が本当に民主主義の国であるなら、主権者である国民が仮に「間違っている」としても、為政者は国民の意思を尊重するべきです。なぜならばそれが民主主義というものだからです。しかしだからこそ民主主義は恐ろしいのです。

いつ暴走するかもわからない民主主義を制御するためには何が必要でしょうか?憲法には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」とあります。『不断の努力によって』というところがポイントです。

ユダヤ教なら「預言者」が、マルクス主義なら「指導者」が、ほうっておいたら自堕落になる民のお目付け役となりわたしたちを導いてくれます。しかし民主主義においては、お目付け役を期待するわけにはいきません。もしお目付け役がいるなら民主主義を放棄したことになります。

日本は民主主義国家としてやっていくつもりなのでしょうか?それとも民主主義を放棄してお目付け役を求めるのでしょうか?