毎日楽しく 生きる作法 【前編】

毎日楽しく生きるにはどうしたらいいのか?そればっかりは誰も教えてくれませんでした。わたしは一心不乱に勉強して大学を卒業し、外資系の経営コンサルタント会社に就職し徹夜上等の心意気で働きました。

いろいろな出会いがありましたが、思い返せば両親も先生も先輩も上司も、誰も彼も、いろいろなことを教えてくれましたが、そのほとんどは、ただの押し付けでした。わたしが本当に必要としている「毎日楽しく生きる作法」については誰も教えてくれなかったのです。

わたしは知らないことを知ることが大好きな知的好奇心旺盛な人間です。だからたくさんの本を読み、たくさんのセミナーに参加しましたが、そのほとんども同じようにただの押し付けでした。「毎日楽しく生きる作法」について教えてくれる出会いは本当に少なかったのです。

わたしは学生のときから社会人になり脱サラしてからも「毎日楽しく生きる作法」について考えてきました。そしてようやく「毎日楽しく生きる作法」がわかってきたように思います。

考えてみればそれは本当に簡単なことだったのですが、残念なことにわたしが受けた教育や学んだ学問や社会人になってからのあらゆる経験は、この簡単なことを隠蔽するように構成されていました。ですから、この簡単なことを見出すのにとても苦労しました。

本レポートはわたしが見出した「毎日楽しく生きる作法」のその一部を紹介することで、あなたの手であなたの人生をいい方向に変えるきっかけになればいい・・・という願いを込めて執筆しました。

わたしが見出した「毎日楽しく生きる作法」は、わたしがざまざまな本を読み、あれこれ考えて、多くの人と対話して、そのうえいろいろと行動した結果、かなり使えることはわかっています。

今回レポートで紹介する情報は、あなたに新しい気づきを与えることになると確信しています。興味がある方は是非とも最後までお付き合いください。

不幸の根本原因

そもそもなぜ毎日楽しく生きることができないのでしょうか?裏を返せば、なぜわたしたちは不幸を感じるのでしょうか?その原因はわかりきっています。

わたしたちが不幸を感じるのは「現在の自分」と「成功している仮想的な自分」を比較し、成功している仮想的な自分に軍配を上げるからです。

ハッキリと断言しておきたいのですが「成功している仮想的な自分」というのは存在しません。それにも関わらず、脳が高度に発達した人間だけは「あの時ああしていたら成功していたはずの自分」というものを想像し、それを現在の自分と比べることができてしまうのです。

「現在の自分」と「成功している仮想的な自分」を比較する・・・という高度な能力はサルやチンパンジーにはありませんので、人間ならではの悩みともいえるわけですが・・・・ちょっと考えてみればその不毛さが理解できるはずです。なぜならば・・・・

絶対に負ける戦い

そもそも「あの時ああしていたら失敗していたはずの自分」もあり得るのに、失敗していた可能性は完全に排除して、わたしたちは常に「成功していた」ことを想定する傾向があります。もっと成功していたはずの自分と現在の自分を比較するのですから、必ず負けるのは明らかです。

そう。わたしたちは絶対に勝ち目のない比較をすることで、自分で自分を不幸にしているのです。だからもしあなたが不幸になるのをやめたければ、「現在の自分」と「成功している仮想的な自分」を比較するのをやめればいいのです。

勝ち目のない比較をやめれば悩みは消えます。しかし悩んでいる人のなかには、悩むこと(勝ち目のない比較)をやめないで、自分をやめることを選ぶ、つまり自殺をする人までいるのですから笑えません。

繰り返しになりますが、不幸な気持ちを一掃したければ勝ち目のない比較をやめることが重要です。とはいえ、「悩みが消えれば不幸は感じなくて済むかもしれないが、それで幸せになれるわけではないのでは?」と疑問に感じる人もいるでしょうから、別の角度から話を続けたいと思います。

人の数ほどある悩み

世の中にはいろんな悩みを抱えた人がいます。大学受験に落ちた、志望企業に入社できなかった、出世できない、安月給で暮らしがキツイ、恋人にフラれた、子育てがうまくいかない、配偶者や親族との関係がうまくいかない、忙しくて自分の時間がない、友達が少なくて孤独、、、、etc

これらの悩みは「現在の自分」と「成功している仮想的な自分」との比較をやめればなくなりますが、悩みがなくなったからといって毎日幸せになれるわけではありません。現在の自分と仮想的な自分との比較はやめることができても、自分と他人との比較はなかなかやめることができないのです。なぜでしょうか?

自分と他人との比較がなかなかやめられない理由は、『社会的価値観というモノサシ』があるからです。社会的価値観というモノサシは、絶対的なものではありません。しかしそのモノサシを基準にして社会が回っているという側面もあるので、かなりの説得力をもっています。

例えば「お金」というモノサシがあります。お金だけが人生のすべてではないことはわかっていますが、お金があれば買えるものもたくさんあります。だから銀行預金通帳の数字がゼロに近づくと不安になり、銀行預金通帳の数字が増えると安心を感じるのです。

どうすれば「社会的価値観というモノサシ」から自由になれるのでしょうか?

責任転嫁

悩みを消すもっとも簡単な方法は、「他人のせいにすること」です。例えば、大学受験に落ちたのは「親から受け継いだDNAのせい」などと親のせいにすることができます。

同様に、出世できないのは「上司のせい」、安月給なのは「景気のせい」、子育てがうまくいかないのは「教師のせい」、恋人にフラれたのは自分の魅力を理解しない「恋人のせい」、夫婦関係がうまくいかないのは身勝手な「配偶者のせい」・・・・・といった具合に、他人に責任を転嫁すればその瞬間は楽になれます。

しかし悩みを消すために「他人のせいにする」という方法はおススメできません。なぜならば人生の責任を他人に転化することはすなわち、「自分の人生は他人に操られていい」ということを認めることになるからです。

あなたは他人に自分の人生をゆだねてその結果、運が良ければ幸せな気分になり、逆に運が悪ければ不幸を感じるという博打のような人生を歩みたいわけではないでしょう?どうすれば人生の主導権を取り戻すことができるのでしょうか?

偏差値

現代の日本社会は、何事にも偏差値をつけて、その価値観を多くの人に押し付けています。しかし「世の中の価値観」といったものは、空気のように当たり前のようにすでに存在しているため、そこに疑問を感じるきっかけすらつかめない・・・というのが現状です。

例えばオリンピック陸上競技の花形といえば100メートル走ですが、なぜ100メートルなのかといえば、そこに明確な答えがあるわけがありません。いつかどこかのタイミングで誰かが「そうしよう」と決めたのです。

あなたは陸上競技選手として活躍したければ、100メートル走を選ぶこともできますが、それがイヤであれば200メートル走を選ぶこともできるし、十種競技に挑戦することだってできるはずです。

わたしたちの社会も陸上競技に似ています。さまざまな「世の中の価値観」は、いつかどこかのタイミングで誰かが「そうしよう」と決めたものであって、わざわざわたしたちがその価値観を受け入れる必要もないのですが、逆に受け入れるのもまた自由なのです。

学歴がほしいなら手に入れればいい、資格やスキルが必要なら勉強すればいい、お金がほしいなら思いっきり稼げばいいし、孤独がイヤなら仲間をたくさんつくればいいのです。

しかし現実には「自分で選べる」という意識は芽生えてきません。「他人から押し付けられている」という感覚のほうが強いでしょう。そう感じるのも無理はありません。なぜでしょうか?

人間がつくったルール

歴史を勉強すれば、学歴・お金・結婚制度・民主主義・資本主義・宗教など、絶対的なものだとわたしたちが錯覚しているもののすべてが、権力者があるタイミングで「そうしよう」と決めたものにすぎないことがわかります。

例えば学歴。受験戦争の発端は、読み・書き・算盤(そろばん)以上の教育に興味がなかった平民の教育熱を高めるために、明治政府が学歴をもって「社会階層」にすることを思いついたからです。

例えば憲法。国家権力を縛るものであるはずの日本国憲法に、国民を縛る「納税の義務」なるものが明記されている理由は、戦後のどさくさにまぎれて財務官僚が熱心にロビーイングしたからです。

例えばお金。お金は信用創造によって何もないところから生み出されています。銀行だけに信用創造が許されているのは、国家権力以上に銀行家の権力が絶大だからです。事実、日本でいうところの日銀にあたるアメリカの中央銀行(連邦準備制度)は民間銀行です。

例えば結婚。歴史を振り返れば、結婚と愛は何の関係もなかったことがわかります。本来の「愛」は結婚後に既婚者がやるものだったのに、恋愛小説の普及を機に結婚が愛の証明になり、いつしか誰も彼もが結婚するために『愛』を探すようになりました。

まだまだありますが、これくらいでいいしょう。伝えたかったことはあなたの価値を測るための「絶対的なモノサシはない」ということです。まずはそこに気づくことが重要です。なぜか?

勘違いの積み木

多くの日本人がお金や資産だと思っているものは本当の「お金」でも「資産」でもないのです。また多くの日本人が憲法・民主主義・資本主義だと思っているものは、本当の「憲法」・「民主主義」、「資本主義」ではないのです。

同様に、多くの日本人が愛や結婚だと思っているものは、本当の「愛」や「結婚」ではないのです。多くの日本人が人間関係や自立だと思っているものは、本当の「人間関係」でも「自立」でもないのです。

もっというなら多くの日本人が教育や宗教だと思っているものは、本当の「教育」や「宗教」ではないのです。。。。他にもまだまだありますが、このくらいでいいでしょう。

自分が「そう」だと思い込んでいることがたくさんあると、「それ」を満たすことができません。「それ」を満たすことができない・・・ということが続くとどうなるでしょうか?

答えは明らかです。いろいろなものを求めても探しても結局は手に入らないので、心を「幸せ」で満たすどころか挫折感・徒労感・無力感の三重苦に悩まされることになるのです。そうならないためにはどうすればいいでしょうか?

答えは明らかです。他人が歴史上のどこかのタイミングで「そういうことにしよう」と決めたシステムなのですから、そのステムの仕組みを熟知して攻略法を発見し、実際に挑戦してみて手に入れてみるしかないではありませんか。

しかし残念ながら・・・実際に世の中がどのようにして回っているのか?という当たり前のことは、ほとんど誰も教えてくれないのです。なぜか?その答えは『窓際のトットちゃん』が教えてくれます。

窓ぎわのトットちゃん

徹子の部屋でもお馴染みの黒柳徹子さんは、小学生の時はいわゆる「落ちこぼれ」でした。しかし「トモエ学園」というミニスクールのおかげで、楽しい日々を送りながら成長することができました。(参考:黒柳徹子著『窓際のトットちゃん』)

もし「トモエ学園」がなかったら???黒柳徹子さんがタレントとして成功したり、ベストセラーを書いたりすることもなかったでしょうし、徹子の部屋という長寿番組が誕生することがなかったでしょう。

ここで重要なポイントは「トモエ学園」は戦後に再建されなかったということです。なぜか?答えは単純です。つくれなくなったのです。

日本の小学校は、1941年にヒトラー全盛にあったドイツの国民学校を手本にして「国民学校」に一本化されました。それにともない個人が勝手に小学校を設立する自由もなくなり、親が自宅で子どもを教えて学校にやらない自由もなくなりました。

そして1945年にはマッカーサーが乗りこんできて1947年には教育大改革がおこなわれたものの、文部省と日教組がガッチリとスクラムを組み、ヒトラー主義は戦後70年以上も経過した現代でも生き続けているのですが、その結果といえば・・・悲惨というしかありません。

日本の学校では「当たり前のこと」を教えてくれないのです。しかしそのことにほとんどの日本人が気づくことができないのです。だから苦労しているのです。こんなエピソードもあります。

湯川秀樹

ノーベル物理学賞の湯川秀樹博士が、政治思想学者の福田歓一(ふくだかんいち、東京大学名誉教授)と一緒に食事をしたときのことです。

福田歓一教授がふとこんなことをいいました。「憲法や議会は民主主義と何の関係もないのです。」と。この言葉には湯川秀樹博士ほどの学者もビックリ仰天。湯川秀樹博士は食事の最後に、こういったそうです。

「僕がこんなことも知らんのは、福田さんが教科書を書かんのが悪いんや」と。なぜ日本の学校では、民主主義を教えないのでしょうか?福田教授は自分のエッセイでこういっています。

(このような事実を)「はっきりさせたのでは、(教科書)検定を通る気づかいはない」と。なぜ検定に通らないのか?福田教授自身はそのことについて沈黙を守りましたが、その理由について推測すればこうなるでしょう。

文部省の役人たちは、議会があって憲法があれば日本の民主主義は安心だと国民に思わせておきたいから。

いつ幸せになる?

そろそろ本レポートのまとめに入りましょう。「毎日楽しく生きる作法」のコツは2つあります。「諦め続けること」と「満たし続けること」です。

何を諦め続けるのか?それは「(現在の自分より)成功している仮想の自分」という存在しないものを想像し、自分と比較して凹むことを諦めるのです。

何を満たし続けるのか?それはあなた次第です。世の中の価値観に沿って満たすものを決めてもいいし、自分の価値観に沿って満たすものを決めてもいいのです。

諦め続けることと、満たし続けることを同時にやると毎日が楽しくなります。まるで子どもの時、「明日はディズニーランドにいく」というときのようにワクワクします。

ここは重要なポイントなので丁寧に説明しておきましょう。「毎日が楽しくなっている状態」がどういうものなのか理解を深めてほしいのです。

ハワイ旅行

ちょっと想像してみてください。明日は待ちに待った旅行の初日です。行き先はハワイ。大自然と美味しい食事があなたを待っています。どうでしょうか?もし本当に明日から旅行にいけるなら、「今」、楽しいのではないでしょうか?

旅行をした経験のある人はその時のことを思い出してください。旅行のための準備はそれなりに大変なはずですが、旅行のために必要なあらゆる準備だって苦痛に感じなかったのではないでしょうか??

むしろ他人から「旅行にいくな!!飛行機が墜落するかもよ?」などとネガティブなことをいわれても、あなたは準備をやめなかったのではないでしょうか?

そう。もし本当に心の底から実現したいこと(例:旅行)があって、それが現実に起こると確信することができたら(例:明日から旅行)、旅行は明日からのはずなのに「今」の時点ですでに幸せな気分にひたれるのではないでしょうか?「どうしたら幸せになれるのか?」という質問すら頭に浮かばないのではないでしょうか?

そう。『本当に心の底から実現したいこと』があって、それが『現実に起こると確信する』ことができたら、今やるべきことがわからないということはないでしょうし、やるべきことをやっている今この瞬間に幸せを感じることができるだけでなく、ものすごいパワーを発揮することができるのです。例えば・・・

空手家バカ一代

昭和の時代にテレビ番組や漫画『空手家バカ一代』で有名になった大山倍達(おおやま ますたつ)氏は、空手初といわれる数々の実績を残した人物です。

例えば『牛を素手で倒す』などの実績がありますし、『ビール瓶の首にあたる部分を手刀でスパッとはねる』などの技をはじめて公開したのも大山倍達氏の実績です。

大山倍達氏はビール瓶割りの技をどうやって身につけたのでしょうか?

大山倍達氏が20代半ばの頃、東京・新宿で飲んでいるときにヤクザの集団ともめごとが起こりました。機先(きせん)を制することが一番だと考えた大山倍達氏は、ビール瓶を思い切り叩き、ヤクザものたちを一喝したのです。

大山倍達氏のあまりの剣幕にヤクザものたちも矛を収めその場は事なきを得たのですが、大山倍達氏はとり散らかったコップや酒瓶のなかに、首の部分が何かで切り落とされたようにスパッととれているビール瓶を発見しました。

その時大山倍達氏は「空手でビール瓶の首をはねることができる」と思い立ったのです。そしてこのエピソードには後日談があります。

内緒の話

大山倍達氏はその後、ビール瓶割りを再現しようと修練に励んだのですが、ビールのガラス瓶はなかなか思うようには割れてはくれません。

そこで大山倍達氏が弟子たちの前でデモンストレーションする際には、あらかじめビール瓶にキズをつけて、あたかも手刀の一撃でスパッと割れたように見せていたというのです。

もちろんキズがついていたとしてもガラス瓶の首をスパッと割るなんてことは誰にでもできることではないのですが、面白いのは「内緒の話」ではなく、弟子たちの反応のほうです。

大山倍達氏がビール瓶の首を手刀でスパッと割るデモンストレーションを目撃した弟子たちは、これぞ空手の真髄だと驚き「極真空手にはそれができる」と信じたのです。

するとなんと・・・弟子たちは手刀の一撃によって、何の細工も加えていないビール瓶の首を、本当にスパッと落とせるようになってしまったのです!!!

大山倍達氏とその弟子たちのエピソードで、わたしがあなたに伝えたかったことは、どのようなことでしょうか?それはもちろん・・・・

本当に心の底から実現したいこと」(ビール瓶を手刀でスパッと割る)があって、『現実に起こると確信する』(極真空手にはそれができる)ことができたなら、その瞬間から幸せになれるだけでなく、ものすごいパワーを発揮できるということです。

パラダイムシフト

あなたが「毎日楽しく生きる作法」を実践するということは、「いつか幸せになるために、今頑張る。」(しかし本当に将来幸せになるかどうかは、誰も保証してくれない。そしてもし不幸になったら他人や社会を恨む)というパラダイムから、「今も幸せだし、明日はもっと幸せだろう・・・という確信を深めながら生きる」というパラダイムに移行することを意味しています。

例えば『ビール瓶割り』を再現しようと修練に励んだ大山倍達氏の弟子たちは、厳しい修行をしている最中だって楽しかったはずです。あなたもそのような毎日を過ごすことができるのです。

しかし「毎日楽しく生きる作法」というものを本当に実践できる人はわずかです。なぜでしょうか?

それはほとんどの人が「やりたいことなんて見つからない」とか、「やりたいことがないわけではないが、それが自分にできるとはどうしても信じられない。」という状態から抜け出すことができないからです。なぜでしょうか?

みんな同じ???

戦後日本の「民主主義教育」における「平等」とは、「みんな同じでなければならない」と、とんでもない最低の誤解をしています。この誤解が教育の諸悪の根源といっても言い過ぎではないでしょう。

「みんな同じでなければならない」ゆえに、教師も保護者も「どの生徒とも同じように接しなければならない」ということが常識だと盲信するようになります。これはつまるところ個性の否定であり『教育の死』なのですが、そのことを熱心に指摘する人はほとんどいません。

教育の常識以前の鉄則は、個性教育です。孔子も「人によって道を説く」という言葉を残しているではありませんか。しかし日本には個性教育はありません。トモエ学園はもう存在しないのです。

だから・・・・「ゲームはするな。友達と遊ぶ時間があるなら受験勉強しろ。」、「徒競走に順位をつけるのはオカシイ」という主張が、まるでマトモであるかのように通用してしまうのです。

勉強には順位をつけるのに、ゲームや徒競走には順位をつけない????ということはすなわち、勉強ができるだけの子どもを優遇し、それ以外の子どもの自尊心の源になるリソース(資源)を奪っているのです。

子どもからやりたいことを奪い続ける教育からは梅原大吾(日本初のプロゲームプレーヤー)のような人物は生まれないでしょうし、「やりたいことがわからない」という大人がたくさんいるのもうなづけます。

そして子供から個性を奪う教育はもっと重大な副作用をもたらしているのです。

何の役に立つ?

内田樹(うちだたつる:神戸女学院大学名誉教授)先生は大学で繰り返し同じ質問をされるそうです。「何のために勉強するのですか?」、「この知識は何の役に立つのですか?」と。

ある国立大学で集中講義をしたときも、その大学の新聞部の学生からインタビューを受けたのですが、最初の質問が「現代思想を学ぶことの意味はなんですか?」というものだったそうです。

内田樹先生は「学生の傲慢さと無知さにほとんど感動した」と述べています。なぜ感動したのか?それは「現代思想を学ぶことの意味はなんですか?」と質問した学生の意図を考えれば明らかです。

この学生の質問の意図はこうです。もし内田樹先生が現代思想を学ぶことの意味について説得力のある回答をしたら「学んでもいい」が、逆に納得できなければ「学ばない」と宣言しているのです。

学生は大学にお金を払っているわけですから、コスパよく知識を学習したいと考えているでしょう。だから「何のために勉強するのですか?」、「この知識は何の役に立つのですか?」と質問するのもうなづけます。しかし学生の考え方は、本当は間違っているのです。なぜならば・・・・

知らないことを知る

小さな子どもは30cmの「ものさし」で世の中のすべてのものを測れると信じています。だから「モノサシ」で測れないもの、例えば重さとか光量とか重力とか弾力といったものの意味を30cmの「ものさし」で測ろうとするのです。

「何の役に立つのか?」という問いを立てる学生も同じ罠にはまっています。「何の役に立つのか?」を判断できると信じているということは、その人の価値観の正しさをすでに自明の前提にしているのです。

いわば「私」に有用か無用かの判断ができると主張しているわけですが、その肝心な「私」の有用性の判定の正しさは誰も保証してくれないのです。しかし傲慢さと無知ゆえに大学生になっても(社会人になっても)そのことに気づくことができないのです。

「何のために勉強するのですか?」、「この知識は何の役に立つのですか?」という質問に対して、そもそもなぜ納得できる答えがあると信じているのでしょうか?

それはおそらく日本の教育が「偏差値」や「学歴」という一つのモノサシで人間を測り、なおかつ答えのある問いばかりを学生に繰り返してきたからでしょう。しかし現実には・・・・

問いに答えがあるとは限らないし、答えがあっても発見できるとも限らないし、質問したところで誰かが答えを教えてくれるとも限らないのです。

核心にせまる

「毎日楽しく生きる作法」を実践するためには、「諦める(続ける)」ことと「満たす(続ける)」ことが重要なポイントでした。そして「満たす」ためには社会システムのカラクリを熟知することが大前提であることを説明しました。

社会システムのカラクリを熟知した上で、「本当に心の底から実現したいこと」に気づき、『現実に起こると確信する』ことができたなら、その瞬間から幸せになれるだけでなく、ものすごいパワーを発揮できる・・・ということも説明しました。

しかし残念ながら・・・・「毎日楽しく生きる作法」を実践できる人は少ないのです。その理由も説明しました。日本の学校教育では「社会システムのカラクリ」は教えてくれないし、「やりたいこと」を応援するどころか個性を殺すのが当たり前で、何かに挑戦しようとしても「やめたほうがいい。それが君のため。」といわれてしまうのです。

だから「何から手をつけていいかわからない」、「やりたいことなんて見つからない」、「やりたいことがないわけではないが、それが自分にできるとはどうしても信じられない」という日本人が大量生産されているのです。

わたしもそうだった

実はわたしもそういう日本人のうちの一人でした。社会人になってからは特に「何から手をつけていいかわからない」、「やりたいことなんて見つからない」、「やりたいことがないわけではないが、それが自分にできるとはどうしても信じられない」というような悩みと戦ってきました。

しかし自分の人生を諦めるわけにはいかないので、もがき続けてきました。たくさんのお金と時間を費やしました。たくさんの出会いや試行錯誤の末に「毎日楽しく生きる作法」を実践できる環境を運よく手に入れることができました。

わたしはやりたいことしかやっていません。いつも遊んでいます。でも真剣に遊んでいます。本を読むときも映画を鑑賞するときも食事をするときも運動するときも仕事をするときも自転車のチェーンを掃除するときもパイプ煙草に火をつけるときも楽しくやっていますがいつも真剣です。

もちろん本レポートの執筆もやりたいからやっています。だけど真剣です。なぜ真剣にやっているのか?それは今のわたしの興味が「毎日楽しく生きる作法」を実践する人をひとりでも多く増やすことにあるからです。だからわたしが学んできた知識を伝授することにしたのです。(続く)

本レポートの続きを含む【完全版】は、11月1日(月)に公開する予定です。楽しみに待っていてください。

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