「エホバの証人」信者の両親のもとで育てられた宗教二世の子どもは、地元でカラスの増殖ぶりが話題になると「終わりはもう近い、いよいよ楽園がやってくる」と感じた・・・・・と昔を振り返っています。
なぜならば聖書(黙示録19章21節)にある『(ハルマゲドンによって)滅ぼされた死体は肉食鳥が処理をする』という言葉を信じていたからです。
もちろんあなたはこんな宗教二世の子どもの昔話を聞いたところで、「わたしは特定の宗教を信じていないので正常です!!!」と主張するでしょう。
しかし自分が信じていることは空気のように当たり前のものであるため、他人からすればどれだけ理解不能であっても、「オカシイ」ことを自覚すること自体が難しいのです。
事実、オウム真理教が地下鉄でサリンを撒いた時、宗教二世の子どもは「へ~、世の中には怖い人たちがいるんだなぁ。」くらいにしか感じていなかったそうです。
わたしが極端な話をした理由は、あなたもわたしも日本で教育を受けている以上、知らず知らずのうちに「日本の色」に染まっているということを伝えたかったからです。例えば・・・・・・
日本の学校では、「え?いまどきそんな校則があるの?」と首をかしげてしまうような校則がまかり通っています。
たとえば・・・・・地毛が黒・直毛ではない生徒は「地毛証明書」を求められたり、ツーブロックも禁止だったりします。他にも体育の授業中の「日焼け止め持参・使用禁止」、下着は「白以外着用禁止」、体操服の下に肌着を着ることの禁止等、理解に苦しむ校則が今でもたくさん残っています。
しかし理不尽な校則を変えることはほとんど不可能です。たとえばある生徒が、靴下の色を指定する校則を変えようと顧問に相談したところ、「伝統だから」と即座に否定されたそうです。そう。日本は「伝統主義」なのです。
伝統主義とは、いい伝統は大事に残して、悪い伝統はなくしていこうとする考え方のことではありません。「過去にやった、あるいは過去に行われたという、ただそのことだけで、将来における自分たちの行動の基準にしようとする考え方」のことです。
そして伝統主義がわたしたちの「元気」を奪っているのです。どういうことでしょうか?
他人から「お前のやることはなんだ。世間はそういうものじゃないぞ。それでは世間は通らんぞ」とアドバイス(説教?)された時、「はい。わかりました。申し訳ありません。わたしが悪いのです。」と素直に従うのが『内申点』や『上司からの評価』を獲得する必要最低限の作法です。
もし「世間はそういうものかもしれませんが、それは正しくありません。断固として改革すべきです。」と反論すれば、「生意気なやつだ」、「反省していない」、「協調性がない」と判断されて『内申点』や『出世』に悪影響があるかもしれません。
しかしだからといって「伝統」に「はいそうですね。」と素直に従うことを続けていると、幸せを獲得する上で必要不可欠な「決断する能力」や「自分の人生をなんとかしよう」というやる気や元気が失われてしまうのです。
そして元気が失われている状態が当たり前になると、理不尽なことに直面しても「怒り」の感情が湧くこともなく、「しょうがない」といって諦めることがクセになってしまうのです。
日本教育の「不思議な点」はいくつもあるけれど、今回強調しておきたい最大のポイントは日本の教育には「作為の契機がない」ことです。作為の契機とは、社会は人間がつくったものだから、人間によって動かすことができる、とする考え方のことです。
実は「作為の契機」があるからこそ民主主義も成り立つのですが、日本の学校は作為の契機を全否定する教育をやっているのです。さきほど紹介した理不尽な校則もそうですし、「これっておかしくない?」と疑問に感じることは会社のなかでも、社会・政治のなかにもたくさん見つかるはずです。
とはいえ「これっておかしくない?」と疑問に感じることに直面した場合でも、よほど痛い目にあわない限りは、「しょうがない」、「そんなものでしょ?」の一言でスルーできてしまうのは、日本教育の偉大なる成果なのです(笑)
そして「作為の契機」がないところでは民主主義は成立しないとなれば・・・・・・「作為の契機」がない日本が民主主義であるはずがないのです。小学生でもわかる単純な論理です。憲法がある。国会もある。選挙もある。だから日本は民主主義であるというのは錯覚でしかないのです。
最先端の科学的な知見によれば、わたしたちの「見えている」という体験は錯覚です。
例えば機能的に視神経が健全な人がはじめてモノをみると、何も見えないそうです。わたしたちが「見ている」と錯覚するのは、脳が概念をベースに対象を補正するからです。
たとえば「これは本だ」、「これはリンゴだ」ということがわかっているから「本」や「リンゴ」を認識できるわけです。同様に夜空をみて北極星を認識できるのも「これは北極星だ」ということがわかっているからです。
同様に、「エホバの証人」信者の両親のもとで育てられた宗教二世の子どもは、カラスを目撃したときに「終わりはもう近い、いよいよ楽園がやってくる」と感じる理由は、聖書(黙示録19章21節)に『(ハルマゲドンによって)滅ぼされた死体は肉食鳥が処理をする』という記述を信じているからです。
また法律をつくるのが仕事であるはずの国会議員が法律をつくらず、総理大臣が会見で官僚が徹夜して用意したペーパーを棒読みしている残念すぎる姿を目撃しても、わたしたちが「日本は民主主義の国である」ことを疑いもしない理由は、学校教育で「日本は民主主義の国です。」ということが当たり前の前提として刷り込まれているからです。
東大名誉教授で「バカの壁」という本が大ヒットした養老孟子先生は、「教科書に書いてあることは本質的にまったく信頼していない」と主張します。
その理由は、終戦当時に小学校低学年だった養老孟子少年は、終戦後に教科書のほとんどの箇所を真っ黒に塗りつぶされるという体験をしたからです。
戦時中は「天皇万歳!!!」と叫んでいたのに、戦争が終わると「アメリカ万歳!!!」と叫ぶようになる人たちがとても多いことにショックを受けた人は少なくないのです。
なぜ教科書が塗りつぶされた話をしたのかといえば、あなたが「覚醒」するためには、あなたが「正しい」と思っていることは絶対不変の真理などではないということを伝えたかったからです。
もちろん「エホバの証人」の信者が「エホバの証人の教えは絶対ではない」と考えを改めることは難しいことですし、同様に「日本教育を受けたあなた」が「日本人のほとんどが信じてる常識は絶対ではない」と考えを改めるのは難しいことです。
しかし日本教育の結果としてもたらされる「しょうがないメンタリティー」を捨て去らない限り、あなたが「自分を変える」なんてことは達成できないのです。
でも安心してください。「覚醒する」という難題を突破するために「覚醒ロードマップ」があるのです。(続く)