ハドソン川の奇跡 ~ Sullyの物語

ハドソン川の奇跡

わたしがタイトルに憤慨した作品『ハドソン川の奇跡』を紹介します。

予告動画)ハドソン川の奇跡

サリーの物語

映画のタイトルは作品が与える寓話を理解する重要なヒントになり得ます。日本では『ハドソン川の奇跡』というタイトルで上映された作品の原題は『SULLY』でした。そう。『ハドソン川の奇跡』という作品は、『奇跡』をテーマにした作品ではなく『SULLY』という飛行機パイロットについての作品だったのです。

とはいえほとんどの日本人は違和感を抱かなかったでしょう。「大惨事からニューヨークを救ったサリー機長は間違いなく奇跡を起こしたではないか?」と思った日本人は多かったはずです。

しかし残念ながらそのように感じるのはあなたが日本人だからであり、欧米では絶対に『ハドソン川の奇跡』というタイトルで作品が上映されないはずです。なぜならば『奇跡』という概念は極めて宗教的なものであり、気軽に使っていい単語ではないからです。

奇跡とは何か?

なぜ欧米では『奇跡』という言葉を気軽に使えないのでしょうか?

まずは『聖書の記述を一言一句信じることがキリスト教徒の条件』であることを理解する必要があります。「処女が懐妊した」、「死んだはずのラザロ(キリストの友人)が生き返った」、「キリストが声をかけただけでハンセン病が治った」などの記述をすべて信じることが、キリスト教徒の条件なのです。

日本では神と人間は『親子』という設定です。ですから何もかも神に任せて安心するという心理的な状態が『神を信じる』ということになっています。しかしキリスト教では神と人間は『親子』ではありません。

契約が神と人間をつなぐ

血のつながりもなにもない赤の他人同士をつなぐものはなにか?そう。契約です。神と人間とは契約でつながっているというのがキリスト教的な考え方なのです。

そもそも契約でつながっているからこそ「神」と「人間」という関係性が生まれるのであって、契約がなければ「神」と「人間」という関係性もないわけです。ですから契約が破られれば神と人間という関係性はなく、まったく無関係な状態に戻ってしまうのです。

現代においても売買が発生するから「顧客」と「販売者」という関係が発生するのであって、売買契約なしに「顧客」や「販売者」という立場が成立するわけではありません。それにも関わらず、商品を購入してもいない輩が顧客でもないのに「お客様は神様」だと勘違いするのは困ったものです。

話を元に戻します。キリスト教においては、契約の内容を確認するというところからすべてがはじまります。契約の内容はどこに書いているのか?そう。聖書です。旧約聖書の旧約は「昔の契約」、新約聖書の新約は「新しい契約」という意味なのです。

契約の内容

人間が神との契約を守っているかぎり、神はどんな奇跡を起こしても人間を救ってくれます。実はこのことも契約に含まれています。だから奇跡を信じないかぎり、契約を守ったことにはならないのです。

では奇跡とはなにか?それは「ありえないこと」です。「ありえないこと」=「奇跡」を起こすことができるのは神しかいません。ではハドソン川に飛行機を着陸させたサリー機長は「ありえない」ことをやったのでしょうか?

サリー機長はありえないことをやりました。それは確かです。しかしサリー機長がやったことはすごいことではあっても「奇跡」ではありません。従って、「ハドソン川の奇跡」というタイトルも適切ではないのです。

適切なタイトルは?

「適切ではないとしても、日本人ならそのことに気づかないだろう」という前提がないと「ハドソン川の奇跡」というタイトルは成立しません。そのことを踏まえている観客のなかにはバカにされたような気持ちになった人もいるはずです。

『ハドソン川の奇跡』という作品は、原題の「Sully」にすべきでした。改変するにしても「奇跡」という単語を気軽に使うのはやめるべきでした。とはいえ「サリー 映画」とGoogle検索すると、『サリー 死霊と戯れる少女』という作品が上位表示されてしまいます。

もしあなたが映画を売り出す側の立場だったら、原題の「Sully」をどのようなタイトルに変更するでしょうか?『ハドソン川の奇跡』のテーマが本来の意味での『奇跡』ではないとしたら、この映画のテーマは一体なんなのでしょうか?映画をチェックしてそんなことを考えてみることが、とても良い頭の体操になるはずです。

ヒント:もしわからなければ『リチャード・ジュエル』を観てください。リチャード・ジュエルを観てもわからなければ『15時17分、パリ行き』を観てください。クリント・イーストウッド作品に共通するテーマに気づけるはずです。