行き止まりの世界に生まれて ~ ルールの導入で失われた微熱感

行き止まりの世界に生まれて

「うっせぇわ」という18歳高校生シンガーの曲が、Billboard JAPANダウンロード・ソング・チャートで4週連続1位になりました。歌詞には「不文律最低限のマナーです。はぁ???うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ」とあります。

この歌詞を聴いてわたしは、ある映画のことを思い出しました。その映画はオバマ元アメリカ大統領が大絶賛して2020年の年間ベストムービーにも選出した映画でして、Amazonプライムのレンタル料金は1,000円と破格の値段(2021年2月28日時点、新作映画のレンタル相場は500円)なのですが、レンタル料金1,000円支払っても観る価値がある映画だと思うので紹介したいと思います。

とはいえ、いきなり映画の紹介をしても「なぜ?このブログでその映画を紹介するのか?」ということが伝わらない可能性が高いので、まずはマナー・前ならえというテーマで前振りをしておきたいと思います。

マナー

行政が一般市民にマナーを論じることは、いまや珍しいことではありません。わたしがほぼ毎日のように利用する東京田町にある「線路を横断できる道路」(以下、地下道路)には、「親が子供の見本になりましょう。自転車のマナー向上を!自転車からは、降りて通行してください。」というメッセージが書かれています。

自転車のマナー向上

わたしがの記憶によると10年ほど前までは、地下道路にマナー向上を促すような注意書きはありませんでした。地下道路は1本道であり、歩行者と自転車を隔てるものも何もありませんでした。

しかし数年前のあるタイミングで地下道路の整備工事があり、そのタイミングから地下道路に少しずつ障害物がつくられるようになり、現在の地下道路は利用を躊躇しそうになるほど障害物だらけになり、ついには「歩行者専用道路」と「自転車専用道路」に分割されるようになりました。

また地下道路からほど近い場所にある『なぎさ通り』という道路にある橋のふもとには「スケボーは禁止です。」というような張り紙があり、役所はいたるところでマナー向上を訴えています。

行政がマナー向上を訴える背景には、「もし事故が起きたら行政の責任問題に発展し、訴えられる可能性がある」という事情があるのはわかりますが、行政がしきりにマナーを訴えるなんてことをしなかった時代を知っているわたしからすると違和感があります。

道路の利用に関することだけでなく、行政があらゆる領域で「マナー向上」や「ルールの順守」を訴えているわけですが、一体どこまでルールを作り続ければ満足するのでしょうか?

日本では新しくルールをつくって他人に強制するのが当たり前になっているのに、そのルールを守るべき理由についての合理的な説明がほとんどなかったり、科学的な根拠があいまいだったりします。

例えば・・・・ゲーム条例(香川県)、小学校のあだ名禁止、・・・(行政の事例ではないですが)・・・・私立高校での男女交際禁止や、つい先日も羽鳥慎一モーニングショがマスクマナーについて取り上げて炎上したことも記憶に新しいです。

そして本当に驚くべきことに、一度ルールがつくられてしまうと、ほとんどの人が盲目的に「ルールはルールだから」といって従ってしまうという現実があります。なぜ?ある日突然あらわれたルールに何の疑問も持たずに従うのでしょうか?

前ならへ

日本では「前ならえ」的な教育がいまだに蔓延っています。先生が「ここは重要ですよ。」といったことをそのまま暗記することが推奨され、先生が黒板に書くことを丸写ししているうちに授業が終わるなんてことも珍しくありません。

「あなたはどう考えるのか?」とか、「なぜ?そう思ったのか?」とか、「あなたならどうするか?」というような質問をされることもありません。だから自分の頭で考えるという経験をしないまま社会人になってしまうのです。

もちろん暗記することは大事です。知識を習得することも大事です。しかしそれはあくまでも「考える」上での大前提でしかないのです。知識を習得するだけではダメなのです。

しかし日本の学校教育では「考える」ことを求められることがありませんので、大人になっても立派な肩書をした人から「これが新常識のマナーです」といわれれば、考えることもせずに「そんなものかな。」とアッサリ受け入れてしまうのです。

気づけばわたしたちがまさに生きているのは、ルールだらけの社会です。まさに(冒頭に紹介した歌の歌詞にあるような)「不文律最低限のマナー」が蔓延(はびこ)る社会です。わたしからすると「うっせぇわ」なのですが、あなたはどう感じているでしょうか?

おそらく「うっせぇわ」と感じる人は、わたしのように「気づいたらルールだらけの社会になっていた」ということを肌で実感できる人であり、そうでなかった時代の記憶をもつ人たちであり、おそらく1986年以前に生まれた人たちでしょう。

逆に「ルールはルールだから」とすんなり受け入れることのできる人は、行政があれこれとルールを強制することが当たり前のようになった時代しか知らない可能性が高いです。

あなたはどちらでしょうか?「気づいたらルールだらけの社会になっていた」という感覚をもっていますか?それとも「気づいた時にはすでにルールだらけの社会を生きていた」という感覚をもっていますか?

「うっせぇわ」の歌詞にあるように、「ちっちゃな頃から優等生」で「気づいたら大人」になっていて、「ナイフのような思考回路」を持ち合わせるわけでもなく「遊びたりなくて」、「何か足りない」が、その原因がどこにあるかわからないけど、「それが誰かのせい」であることに無意識に気づいていて「あてもなく混乱している」方は、是非とも・・・・

これから紹介する「行き止まりの世界に生まれて」(原題:Minding the Gap)を観てください。

行き止まりの世界に生まれて

「行き止まりの世界に生まれて」は、白人・黒人・アジア系のスケボー少年たちに、12年間カメラを回し続けたドキュメンタリー映画です。

わたしのように「気づいたらルールだらけの社会になっていた」という感覚をもつ人間にとっては、作品のなかで描かれている若者同士がバカをやって楽しんでいるシーンや、街に漂っている言葉にできないなんともいえない微熱感が、ぜんぶ「なつかしい」のです。まさに「あー!!!、昔ってこういう感じだったよね!!!」という感じなのです。

しかし作品が進むにつれて、わたしが「なつかしい」と感じたものは、少しずつ失われていってしまうのです。そして「あったはずのものが失われてしまう」ということは、わたしのような人間にとっては、(とてつもなく)さみしいことなのです。

多少ネタバレになりますがスケボーは、白人・黒人・アジア系というバックボーンの異なる人間たちをつなげる役割を担うツールとして描かれています。だからスケボーというツールがなくなると、背景の異なる人間同士のつながりもなくなっていくのです。

もちろんスケボー少年たちも、スケボーを楽しんでいる子どものうちは、スケボーというツールの役割の重要さに気づいていません。しかしそれに気づいた時には、もう全部取返しがつかないことになっているのです。

まるでタケノコのようにルールをつくる人たちは、そのことを自覚していないのではないでしょうか。ルールによって得られるものもあれば、失うものあるのです。いいとこどりはできないのです。