「世も末だな」な話

「世も末だな」な話

もしLINEで知り合いから「今さっき、あなたの奥さん(旦那)が亡くなった。殺したのはアイツだ。」と連絡をもらったらどうしますか?

文字に釣られる人たち

ある男性は、「あなたの奥さんはアイツに殺された」という嘘のメッセージを信じて、奥さんを殺した(とはいえ嘘なのですが。)女性を殺してしまいました。

警察に事情を聴かれた実行犯の男性は、「(妻が生きているなんて)(メールが嘘だったなんて)本当なんですか?」と絶句していたそうです。

参考 妻が殺されたという嘘を信じ、“犯人の女”を殺害した夫 男女4人の奇怪な殺人の真相 大阪AERA dot.

また別の話をします。

俳優の佐藤浩市さんのビックコミックでのインタビューがSNSで炎上しています。佐藤浩市さんが「安倍首相を揶揄したんじゃないか?」ということで盛り上がっているのです。

しかしビックコミックのインタビュー全文を観てると、むしろ「安倍首相を美化している」とも読める内容になっているんです。

参考 炎上した『ビッグコミック』の佐藤浩市『空母いぶき』インタビュー原文を読んだら、完全に原文と文脈を違えて引用した産経記者のやらかしであったCDBのまんがdeシネマ日記

さらに別の話を取り上げます。

10歳のYouTuberゆたぼんが、「不登校は自由」だと発言したというネットニュースがやたら目に付くので調べて見たら、意外なことがわかりました。

YouTuberゆたぼんは、「イジメなどで死ぬぐらいなら、学校いかなくていい」というニュアンスで語っていますが、「不登校は自由」とまで言い切っている動画は、私の知る限りありませんでした。

しかしネット記事でははっきりと、「不登校は自由」という表現がたくさん見つかります。

参考 「不登校は自由」10歳のYouTuberゆたぼんをめぐり、有名人からも賛否両論が大噴出女子SPA!

以上、3つの現象について取り上げましたが、共通点は「文字に釣られている」です。だから「文字に釣られないようにしましょうね。」だなんて単純なことを言うつもりはありません。なぜならば文字に釣られやすいのが人間だし、だからこそ文字は発達してきたという歴史があるからです。

文字からは逃げられない

19世紀末に活躍したルドルフ・シュタイナー(バルカン半島出身の思想家)や、ジークムント・フロイト(精神分析学の創始者)は「社会も人格も生まれてからインストールされるプログラムであり、そのプログラムは「言語によって構成される」ということに気づいていました。

また言語によって構成されるプログラム(例:赤信号はわたるな 等の『法律』)に忠実になればなるほど、わたしたちには破壊的な衝動が蓄積されるということにも気づいていました。

例えば「勝ち組」という言葉は「負け組」という言葉と表裏一体の関係にあり、「負け組になるな」という言葉に忠実になればなるほど「勝ち組になりたい」という気持ちだけが独り歩きしていくのです。

このような表裏一体の関係は言語プログラムすべてに及び、必然的に抑圧を生み出します。繰り返しになりますが「赤信号を渡るな」ということは「赤信号を渡れ!」を抑圧していることになるし、「浮気するな」ということは「浮気する」を抑圧していることになるのです。

社会学者の宮台真司先生曰く、大規模定住者会を営むために必要な「文字」プログラムのなかで生きるわたしたちは、必然的にプログラムを守る抑圧から生み出される「破壊の享楽」を志向する可能性に常にさらされているのです。

自己嫌悪・息苦しさ

そう。社会を営むために必要なものはそのすべてが「幻想」であり、であるがゆえにわたしたちはその「幻想」を壊したくなる衝動から逃げることが難しいのです。それにも関わらずわたしたちは社会から逃れることができず、社会にまみれて生きることしかできないのです。

しかし社会にまみれすぎると自己嫌悪になったり息苦しさを感じるようになりがちです。例えば日本社会では「勝ち組になること」が推奨されます。自分が勝ち組であると自覚できているうちはそういう社会で生きることを肯定できるかもしれませんが、資本主義は「ほとんどが負け組」になるように設計されています。

ですから多くの人がいつかどこかのタイミングで負け組になり、その瞬間に「自分は何をやっていたのだろうか?」などと考えてしまうという状況にハマってしまうのです。どうすれば少しでも自分を嫌いにならずに社会で生きていくことができるのでしょうか?以下、いくつかのアドバイスを残しておきます。

#1 判断は保留するのが自然

「絶対に●●に違いない」と判断したがる人が多いです。というか、脳は白黒ハッキリつけたがる性質があるようです。しかし白黒ハッキリつけなければいけない状況でなく、判断する材料がそろっていないのに、白黒ハッキリつけるのは問題です。

現代のベートーベンともてはやされた佐村河内守さんが出演した『FAKE』という映画では、「ずっと何が本当かわからないけど、判断を保留する」という態度が貫かれています。モヤモヤをモヤモヤのまま放置できるかが問われているわけです。

また『女は二度決断する』という映画では、「絶対に許せない!」という気持ちですら「勘違いかもしれない」という疑念がテーマになっていました。

そう。わたしたちの「わかった気になる」ということ自体がそもそも怪しいのです。ですから常に誰かに「そう仕向けられたのでは?」という可能性を頭の隅に置いておくべきなのです。

ソクラテスの「無知の知」はまさにそのことをいっています。自分の知識が完全じゃないことを常に自覚しろということです。自分の知識が完全じゃないことを自覚していたら「保留」するのが自然なのであって、あえて決断するのは「保留できない事情」があるからに過ぎないのです。

#2 言葉を鵜呑みにしない

言葉を鵜呑みにするのは危険です。言葉なんてものはいくらでも加工できます。極端な話、経験していないことであっても、さも経験したかのように語ることはいくらでもできます。

ですから言葉を理解するときは必ず、「コンテキスト」(文脈情報)をセットで理解することが肝心です。例えばメッセージツールで「馬鹿」といわれても、「馬鹿」という文字の意味が、「愛している」なのか「反省しろ!」なのかは、文脈を判断しないとわからないはずです。

そのように考えると10歳のYouTuberの発言にマジ・ガチで反応する一部の大人の発言も、その大人なりの「ポジショントーク」であることがわかってくるはずです。キャバクラやホストクラブで「好き!」といわれて本気にするような「痛い」大人にはなりたくないものです。

#3 言葉の外を感じる

社会は文字でプログラムされた世界ですが、その社会の外を感じることが、言葉に釣られないためにも、そして社会をなりすまして生きる意味でも有効です。例えば「祭り」は、言葉のイラナイ世界ですよね?

「言葉のイラナイ世界」を感じる手段は人それぞれです。自然が近くにあるなら、わたしのいっていることがよくわかるはずです。山を散策してもいいし、サーフィンしてもいいでしょう。東京のど真ん中で暮らすわたしも、自転車で銀座・六本木・渋谷あたりを走り回っています。正直な話、車にいつひかれて死ぬかもわかりません。

自分ではコントロールでない(言葉では介入できない)「世界」を感じると、言葉を駆使してなんとかうまくやろうとしている人の「うさん臭さ」をなんとなく見抜くことができるようになります。

そうなったときはじめてあなたも「理屈じゃなくて自分がスゴイと思える何か」に没頭できるようになり、他人からの評価や常識などに囚われすぎて生きづらさを感じることもなくなるのではないでしょうか。