ジブンラシク 生きる作法

日本には「どうしたらいいでしょうか?」と質問したくてウズウズしている人がとても多いことを前回のレポート『思考停止という病』では明らかにしましたが、その理由は実のところ『日本の学校教育』にあるのです。

残念なことですが、日本の教育では規範を教えてくれないのです。規範とはことの善悪のことです。ひらたくいえば「何がよくて何が悪いか」ということです。

「日本の学校では規範を教えてくれない」と主張すれば、驚く人が多いと思うので、わかりやすく説明したいと思います。

カルト教団

規範とは是非善悪(ぜひぜんあく)の基準になるものです。「これはしてよい、あれはするな」という命令です。もし規範がなかったら人はどうなるでしょうか?

答え:規範がなければ、人は何をするべきかがわからずに途方にくれる。(注:「何をするべきかわからず途方にくれている状態」は、社会学的には「アノミー」(anomie)という用語で説明されますので、以下「アノミー」という用語を使います。)

人がアノミーになるとどうなるでしょうか?

正常であるはずの人が、狂信的行動に走ることになります。例えばカルト教団。

「あんな教養もあり地位もある人が、なんであんな幼稚なカルト教団に入信するのか?」とたいがいの人は呆れるでしょう。しかしカルト教団の信者は、死に物狂いなのです。

なぜカルト教団の信者は死に物狂いになるのでしょうか?

規範飢餓

それが存在するときには、ありがたみがわからないものというのはたくさんあります。日本人は水と空気はほとんどタダだと信じていますが、そうではありません。

とはいえ日常生活で水なんかいくらでもあるときには、枯渇(水がないこと)の恐ろしさなんか想像もできないですし、食べるものが有り余っているときには飢餓は考えられません。だから拒食症なんて病気がでてくるのですし、東京オリンピックでは大量の弁当が廃棄されてしまうのです。

規範もこんなものだと思うとわかりやすいのではないでしょうか。規範が存在するときにはありがたみがわからない。一人の人間にとって必要不可欠であることに気づかない。しかし、失ってみて、そのありがたみが本当にわかるのです。

規範がない状態、つまり「何をしてよいのか、何をしてわるいのか」がわからなくなる状態、実は人間にとってこれほど苦しいものはないのです。まるで溺れているように苦しいのです。

規範に飢えているときに、カルト教団の教祖があらわれるとどうなるでしょうか?

カルト教団の教祖は、「あれをしろ、これはするな」とハッキリ命令します。曖昧さはゼロです。アノミーの状態にある人にとっては、今まで求めてもなかったものがそこにあるのです。

アノミーの状態にある人が教祖に命令されれば、もうあっという間にイチコロです。教養があろうが、学問があろうが、地位が高かろうが、家族がいようが、狂信的な信者に生まれ変わってしまうのです。

もちろんあなた自身が、気づいたら地下鉄にサリンを撒く宗教団体の仲間になっていた・・・ということはないかもしれません。しかしマジメに頑張っているだけのつもりが、いつの間にか悪事に手を染めているということはあり得るのです。例えば・・・

赤木ファイル

森友学園への国有地売却をめぐる財務省の公文書改ざん問題。公文書を改ざんして、うつ病を発症した末に自殺した赤木俊夫さんは、国家公務員倫理カード(国民全体の奉仕者として公正に働いているか、自己点検項目が記されている)を常に持ち歩いているほどマジメな人でした。

赤木俊夫さんを苦しめたものはなんだったのか?

赤木俊夫さんを苦しめたものは、『二重規範』です。二重規範とは、社会一般での規範とは別の規範が存在する状態のことです。赤木俊夫さんは「国家公務員の倫理」をやぶり、「財務省の論理」を優先することを強要されたのでした。

同様の事例は山ほどあります。本当に山ほどありすぎて、数えきれないほどあります。例えば郵便局の内部通報制度。有力な郵便局長が「仲間を売るのは許せん」と吠えて、内部通報制度を真っ向から否定しても、経営陣は曖昧な態度しかとってくれないのです。

他にもコロナ禍において、国会議員や高級官僚は国民に対して自粛要請をしておきながら、自分たちは夜のクラブで酒を飲んだり、深夜まで居酒屋で送別会をやっていたことが問題になりました。

それをみた国民は社会的な規範を守るでしょうか?もちろん守らない人たちが続出します。「お上がルールを守らないなら、わたしたちだって少しぐらいルールを破ってもいいだろう」と考えて行動するようになるのです。

そう。日本は「破ってはいけない規範があるようでないし、ないようである」という独特の国なのです。そして規範を破っても「ごめんなさい」と一言謝罪すれば、何事もなかったようになり、そのまま仕事を続けることが『責任をとること』になってしまう不思議な国なのです。

あなたは驚くかもしれませんが、いわゆる先進国の中でそういう責任の取り方が通用する国は「日本だけ」なのです。

生きづらさの正体

日本では社会一般で通用する規範があるようでないし、ないようであるのです。しかし日本人のほとんどがそのことを自覚していませんし、そのことを教えてくれる「教育者」もいません。だから余計に生きづらさを感じるハメになってしまうのです。

「日本では社会一般で通用する規範があるようでない」という衝撃の事実を理解することは、あなたが日本以外の国で暮らしたことがなければ実感がわかないかもしれないので、具体例をもう一つ挙げておきます。

例えば「資本主義」にも規範があります。日本は一応のところ、資本主義の国ということになっています。では学校教育で「資本主義の規範」について学習する機会はあったでしょうか???

おそらくないはずです。わたしも大学を卒業するまで勉強し、外資系の経営コンサルティングファームに入社して毎日ハードに働きましたが、資本主義の規範について本当に理解したのは、会社を辞めて脱サラして思考錯誤しながら数年の時間が経過した時でした。

では資本主義の規範(ルール)とは一体どのようなものなのでしょうか?

資本主義のルール

資本主義のルールとは、「市場原理を損なわないこと」です。では市場原理とは?市場原理とは淘汰の法則のことです。つまり企業は淘汰されて破産する、労働者(経営者も含む)は淘汰されて失業するという原則を守ることです。

もちろん企業の破産は好ましいことではないし、労働者(経営者も含む)だって失業したくありません。失業すれば痛い目にあうことは間違いありませんから。

しかしだからこそ破産したり失業しないために、資本主義の参加者たちは思考錯誤するのです。繰り返しになりますが、思考錯誤することが資本主義に生きる人間の基本的な行動です。

ゆえに失敗は常に起こることを覚悟しなければいけません。失敗を恐れていては資本主義は成立しないのです。では資本主義における教育では、何を教えなくてはいけないのでしょうか?

まずは「破産や失業は日常茶飯事」であることを教えなければいけません。次に「失敗をどう受け止めるか」ということや、「破産と失業にどう対決するべきか」ということを教えなければいけません。

しかし日本の点取り主義的の自動販売機的な教育では、それら危機管理についてまったく考える機会がありません。だからこそ不況が深刻化して破産が増加すれば、経済的困難にメンタルがやられた末に自殺する・・・という人が続出してしまうのです。

日本の難点

ここまでレポートを読んできたあなたなら、「どうしたらいいでしょうか?」と質問する自分を辞めて、日本で幸せに生きるために必要なことが、少しずつ見えてきたのではないでしょうか?

日本で幸せに生きるためには、まずは日本という国が「二重規範」の国であることを理解する必要があります。そしてもしあなたが<ウマク>生きたければ【内部規範】(例:会社内部の掟)について理解しなければいけないし、<マトモ>に生きたければ『規範』についても熟知せねばなりません。

そしてもしあなたが<ジブンラシク>生きたいのであれば、さまざまある規範について熟知した上で、「自分はどうなりたいのか?」ということを考えながら常日頃から失敗を恐れることなく思考錯誤しなければいけないのです。

しかし残念ながら規範とは何か?ということを勉強しようにも、それを学習する機会というものは現代の日本ではほとんど見つかりませんし、あったとしてもその存在に気づくことができないのです。なぜでしょうか?(次回に続く)